「政治より文学取る」
小説家であり政治家であった石原慎太郎が死去した。享年89。小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞し(1956年)、一躍時代の寵児(ちょうじ)となる。政治家に転身した(いや、小説家は辞めていなかったのだから、兼業だったのだが)のが68年、参院選全国区で301万票を取って国政に進出した時だった。そこから政治家石原慎太郎が始まる。
週刊文春(2月10日号)が「『太陽の孤独』石原慎太郎逝く」を載せている。小説家として十分に成功していた石原が、どうして政治の世界に足を踏み入れたのかについて、幻冬舎社長の見城徹が同誌に語っている。
「常に、現実に対して余りあるほどの想像力があるんです。その想像力を慰撫するためには、小説では飽き足らなかった。それで、彼は政治の世界に行ったのだと思います」そこには「天才」もいたし、盟友亀井静香がいう「永田町動物園」でもあった。
でも、どちらに比重があったのだろうか。評論家の中森明夫は、「僕が(政界引退の少し前に)『政治と文学とどちらを取るんですか』と聞いたんです。そしたら『文学を取るね』と即答でした」とのエピソードを明かしている。
だからなのか、青嵐会に参画したり、総理総裁に挑んだり、新党を旗揚げしたりしたけれど、政治家としての石原にはどこか「雑さ」があった。
筆者は駆け出しの政治記者時分、故中川一郎を継いで派閥を構えていた石原を担当したことがある。派閥解散を決めた年の研修会を台湾でやるというので同行取材した。
台北で政財界の人士を招いてパーティーを行ったが、手配した旅行社のセンスがなかったのか、ホテルの格式も、パーティーの中身も「石原」の看板を汚すものだった。自ら最終チェックせず、人任せにしたのだろう。
「死後」に恐れを抱く
こんなこともあった。フィリピンでアキノ革命(86年)が起き、コラソン・アキノが大統領になって、夫で暗殺されたベニグノ・アキノと親交のあった石原は表敬訪問した。その時、持っていった贈り物は三越の包装紙でくるまれていた。日本で三越は“威力”があるかもしれないが、フィリピンのみならず、アメリカでもそうだが、店の包装紙は相手に対して失礼だ。別途ラッピングすべきだった。
石原はその習慣を知っていただろうが、贈り物の用意を秘書にでもやらせたのか、それでつまらない恥をかいた。このエピソードはアキノ暗殺の現場にいたジャーナリストの若宮清から聞いたものだ。
“余技”だったとは言わないが、議員会館よりも国会図書館にいることが多かった石原にとって、政治とは何だったのかと思わせる。
石原が「死後」について恐れを抱いていたことを同誌は紹介している。交流のあった精神科医の斎藤環は、「自分の意識が途絶えて、“無”になることに関する恐怖感が強いようでした」と明かす。豪放磊落(らいらく)さの影で死への恐れを抱いていた。たとえ無になっても、作品は残る。だから政治よりも文学と即答したのだろう。
「太陽」のように注目されてきた石原は「死んだら意識もなく無になっていく」という「孤独」を「人生の核」に抱えていた作家、というのが同誌の評価だ。死去は1日。締め切りによく突っ込んだ記事である。ある程度準備していたのか。
埋没「立憲」の処方箋
話変わって、サンデー毎日(2月13日号)で重倉篤郎が「埋没『立憲』立て直しへの処方箋」として、長妻昭、輿石東、山内康一、匿名者の4人に“処方箋”を聞いている。昨年の衆院選で惨敗して、「野党第1党としての再浮上」策を現役、OB、落選者から多角度で聞こうという記事だ。
気迫、選択肢を示す、国家像・社会像、そして何よりも外交・防衛政策、どれも今の立民に「ない」ことを言っている。ないから惨敗した。この泥沼からどう抜け出し、それらを打ち出すことができるか。日本の政治のためには、「健全で手強い野党」が必要だが、それが立憲民主党とは限らない。(敬称略)
(岩崎 哲)