中国の脅威に危機感募らす保守紙、知らんぷりの「おめでたい」左派紙

2022年は左派紙のように「おめでた気分」ではいられない。写真は銀座和光

元旦社説に理念凝縮

「年の初めのためしとて」とお正月の歌にあるが、新聞の元旦社説を読むのをためし(恒例行事)とする人もおられよう。元旦社説にはその新聞の理念が凝縮している。各紙も気合を入れて書く(はず)。それで読み応えがある、というわけだ。では今年は何と言ったか。タイトルと印象に残った箇所を紹介する。

読売は「厄災越え 次の一歩踏み出そう」「何もしなければ平和が保たれるなどというのは、危険な幻想である。平和を守るには何が必要か、その『平和の方法』を具体的に考え行動しなければならない」。

然(しか)りだ。読売は日本自身の防衛努力と日米同盟の強化を唱える。具体策は総合面の「語る 新年展望」で安倍晋三元首相がずばり敵基地攻撃能力の保有と語っている。
産経は乾正人論説委員長の「さらば『おめでたい憲法』よ」「あまりにも平和が長続きしたため、『いざ鎌倉』となった場合の備えがまったくできていないことだ。…『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』国民の安全を図ろうという『おめでたい』憲法は、もう要らない」。

これも然りだ。「平和を愛する」の前文といい「戦力は保持しない」の9条といい、厳しい国際社会にあっては「おめでたい」と言うほかない。

本紙は黒木正博主幹の「警戒すべき新冷戦下の思想混迷」「プロシアの政治家オットー・フォン・ビスマルクは『政治家の仕事は、歴史を歩む神の足音に耳を傾け、神が通り過ぎるときに、その裳裾(もすそ)をつかもうとすることだ』と述べた。政治家だけではないが、謙虚に人知を超えた存在への畏敬、そして『天意』を知る慧眼(けいがん)の士の登壇が待たれている」。

読売の言う「厄災」を越えるには、また乾氏の言う「いざ鎌倉」には命を投げ出さねばならないときもあろう。自衛官は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」と服務宣誓する。人(肉体)を超克する価値を見いださねば死線を越えられない。思想的鍛錬が必須だ。

形を変えた媚中記事

朝日は「データの大海で人権を守る」「一人ひとりの人権を妨げる危うさは、国家にこそ潜在することも忘れるわけにはいかない。国家がデータを集中、独占すればSF的なディストピアが出現する。何より個人の尊重に軸足を置き、力ある者らの抑制と均衡を探っていかなければならない」。

ここで言う「力ある者ら」とは米国のグーグルなどの巨大IT企業のことで、「国家にこそ潜在する」とする国家とは日本のことだ。それには危惧を表しても現に人権侵害が顕在する文字通りのディストピア(暗黒郷)の中国については一字も触れない。形を変えた媚中(びちゅう)記事だ。奇(く)しくも産経の元旦1面トップも「ビッグデータ」を取り上げるが、こちらは情報安全保障に主眼を置いている。

毎日は「民主政治と市民社会 つなぎ合う力が試される」「民主政治とは本来、為政者が少数者の意見にも耳を傾け、議論を通じて合意を作り上げる営みだ。だが、安倍晋三・菅義偉両政権下で異論を排除する動きが強まり、国民の分断が深まった」。
首を傾げる。国会で建設的議論を自ら封じ、合意をつくる作業を怠ったのは野党ではなかったか。それにしてもいつまで安倍・菅批判を続けるつもりか。新年というのに時計の針が止まっている。

精神論はほどほどに

東京は「『ほどほど』という叡智」。「食べすぎ、とりすぎ、使いすぎ…。大方の問題の根っこは、私たちの生き方の中に染み込んだ『過剰』に帰するような気もしてきます」。で、どうするのか、具体論がない。環境原理主義者のような精神論はほどほどにしてほしい。

このように元旦社説で一目瞭然。保守紙が中国の脅威に危機感を募らせているのに左派紙は知らんぷりだ。憲法だけでなく、朝日も毎日も東京も「おめでたい」のである。
(増 記代司)

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