トップオピニオンインタビュー戦前から日本人アイデンティティー 宮城能彦・元沖縄大学教授に聞く

戦前から日本人アイデンティティー 宮城能彦・元沖縄大学教授に聞く

 戦後27年間、米軍の統治下にあった沖縄が1972年、日本に復帰した。沖縄の人々は「琉球独立」ではなく「本土復帰」を選んだ。アイデンティティーの揺らぐ時代を受け止め、「沖縄人」とは何なのか。15年前から本紙のビューポイント欄に毎月寄稿し、共同体研究を専門とする宮城能彦・元沖縄大学人文学部教授に聞いた。

みやぎ・よしひこ 昭和35年、沖縄県那覇市生まれ。琉球大学法文学部卒、兵庫教育大学大学院修了、平成16年に沖縄大学人文学部教授、令和8年定年退職。専門は村落社会学、地域社会学、共同体論。著書に『名護市史 教育』、『那覇市教育史』、『日本人のアイデンティティー教育―沖縄問題を通じて―』など多数。
みやぎ・よしひこ 昭和35年、沖縄県那覇市生まれ。琉球大学法文学部卒、兵庫教育大学大学院修了、平成16年に沖縄大学人文学部教授、令和8年定年退職。専門は村落社会学、地域社会学、共同体論。著書に『名護市史 教育』、『那覇市教育史』、『日本人のアイデンティティー教育―沖縄問題を通じて―』など多数。

祖国復帰運動を担った教師 

――定年退職を前に、27年間の沖縄大学勤務の集大成として3月14日、最終講義をされました。

 1部では「沖縄アイデンティティの源泉を求めて 地域共同体・島・日本復帰、そして学び合い」と題して講義し、2部では教授や県議らと議論しました。講義では、米軍統治下に生を受け小学6年生で復帰を経験した僕が、沖縄を相対化して研究するようになった経緯から、現在の考察まで話しました。

 ――いつ頃からアイデンティティーを意識するようになったのでしょうか。

 復帰前、小学生の僕は東京と同じ教科書を使っていました。もちろん日本語で生活し、日本語で授業を受けていました。しかし、「日本の最南端は鹿児島県の与論島」と書かれてありました。「え? 同じ教科書で同じ言葉で勉強している僕たちは一体何者だ?」と疑問も持ち始めました。

 一番印象に残っているのは祖国復帰運動の担い手だった学校の先生たちです。復帰前は先生は「君たちは日本人なんだよ」と教え、日の丸を作ってくるという宿題もあるほどでした。ところが、復帰後は日本教職員組合(日教組)に取り込まれて「日本は悪い国だ」と、真逆の教育をするようになったんです。僕はその影響を受けましたが、大学生の頃、小学校の日本人教育を思い出し、僕は日本人なのか琉球人なのかと、民族や世界史などを勉強し始めました。

 ――アイデンティティーが定まっていない未成年は、良くも悪くも学校教育の影響を受けます。

 より詳しく沖縄返還のリアルを知りたい人にお薦めしたい本があります。僕は記憶力の良さを生かし、沖縄が日本復帰をどのように迎えたかを一冊の本にまとめました。『ぼくたちの1972年―沖縄の少年と家族の日本復帰』(アメージング出版)です。自分の記憶と家族への取材に基づき、等身大の沖縄を記録しました。山原昭というペンネームで書きましたが、沖縄の戦後に興味がある人はぜひ読んでほしいです。

 ――沖縄アイデンティティーについて現時点での結論は得られましたか。

 沖縄と奄美だけにある共同売店などの研究を通して、沖縄の歴史と文化の相対化に取り組みました。

 沖縄の学者はなかなか認めたがらないのですが、17世紀ごろから幕府体制に完全に組み込まれ、一つの藩のような扱いだったとも考えられています。17世紀ごろから実質、日本だったのです。

日清戦争後、日本人として生きる覚悟

 ――17世紀には1609年の薩摩支配のイメージがあり、高齢の沖縄人には薩摩嫌いも多くいるとか。

 琉球・沖縄史の研究が進む中で薩摩支配のイメージも変化しています。薩摩が琉球を奴隷のように支配したというイメージが残っていますが、実際には琉球はかなりの「自治」が認められ、報告義務ぐらいしかなかったそうです。むしろ好待遇だったとも取れるのであります。

 なぜなら、徳川家康以後の江戸幕府は明や清と貿易をしたかったからです。豊臣秀吉が1592年に朝鮮出兵をしたことで明や清と険悪になった幕府は、薩摩藩の管理下にある琉球を貿易拠点と位置付けました。

 近年のDNAゲノム研究でも、旧石器時代の沖縄の港川(みなとがわ)人と僕らは遺伝子が繋(つな)がっていないことも分かっています。縄文のDNAが強いことから、いわゆるグスク時代(平安末期から鎌倉時代)に日本本土から琉球列島への移住者がある程度いたと考えられています。

 ――1872年から79年にかけて、明治政府が琉球国を琉球藩に改め、藩の廃止と沖縄県を設置した琉球処分の頃はどのような意識だったのでしょうか。

 明治時代の終わり頃には、沖縄の人々は完全に日本人の意識を持っていました。琉球処分後も、琉球の役人レベルでは清の力を借りて琉球を復活させようという狙いもありました。決定的だったのは、日清戦争で日本が勝ったことによって、その選択肢も消え、日本人として生きていくしかないと沖縄は腹を括(くく)った形です。

 戦前から沖縄人は「日本人としてのアイデンティティー」を持っていたと言えるでしょう。そのため、戦後の本土復帰を「祖国復帰」と表現したと説明ができると考えています。1968年、復帰前の沖縄で初の主席(知事)選挙で、投票率89%の中、「琉球独立」を訴えた野底(のか)武彦氏の得票率が1%以下だったことからも明らかです。

研究しないなら、就職か専門学校へ行け

 ――教育現場の現状は。

 沖縄に限らず、日本の大学は一部を除いて〝終わっている〟と感じます。大学に行く価値がないと考えるのは、人工知能(AI)技術の普及と、大学の就職予備校化が原因です。大学で研究に没頭する動機がないのであれば、高校卒業後に就職するか、専門学校に行く方が有意義でしょう。人は不思議と社会人になってから一番勉強したくなるのです。

 ――今後の活動は。

 社会に出てから勉強したい人のために、「まなラボ沖縄」という取り組みを始めました。「学びたい時に学べる場と時間をつくる」をキャッチコピーに、一般社団法人・地域学び合い研究所を立ち上げ、沖縄で学びを拡(ひろ)げる活動ができればと思います。

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