
真実歪める報道で状況悪化 反論あれば社会的訴えを
世界日報の読者でつくる「世日クラブ」の定期講演会が21日、オンラインで開かれ、ノンフィクションライター・福田ますみ氏が「マスコミの大罪と現代の魔女狩り~映画『でっちあげ』公開に寄せて」と題して講演した。モンスターペアレントと関係者によって、福岡市の教員が冤罪(えんざい)にもかかわらず「殺人教師」とまで世間から批判されたのはメディアが事件を最初から決め付けて報道したことに原因の一端があると指摘。世界平和統一家庭連合(旧統一教会、家庭連合)に対する報道も事件と同様に連合側を「悪魔化」して非中立的な報道を行ったと批判し、メディアはさまざまな問題で「今や第一権力になっている」と、報道の危うさについても警鐘を鳴らした。以下は講演要旨。
私は独身で子供もいないので、映画の元になった学校現場の取材にはもともと興味がなかった。きっかけは、週刊文春の「『死に方教えたろうか』と教え子を恫喝した史上最悪の『殺人教師』」という記事。まずタイトルに目を剥(む)いた。さらに先生の実名、顔写真、自宅も学校の写真も晒(さら)されていた。文春には教師が人種差別を理由にひどい体罰を行い、児童はPTSDの診断を受けていたとまで書かれていた。
新潮社の編集者から後追い取材を頼まれ、気は進まなかったが取材を始めた。学校周辺での聞き込みを行うと学校近くの公園であるお母さんが「あの親は金目当てだろう。軽い体罰を大げさに言っているだけ」と語り驚いた。小学校3年生の時に「殺人教師」とされる先生が担任だったという女の子に話を聞くと「先生は体罰をしたことはなかった」という。虐待を受けた児童と学童保育で一緒だったと話す男児は、児童のことを「悪ガキ」とまで評していた。
首をかしげながら教師の家に向かうと、教師は取材に応じてくれた。教師が取材に応じたのは、校長が窓口になるから何も話すなというので任せたら、欠席裁判のようになって自分がとんでもない悪人として報じられたからだという。話を聞くと、教師が嘘(うそ)をついているようにはとても見えなかった。
なぜ児童の保護者の言い掛かりを認めて謝ったのか問うと、教師は「保護者と教師は対等ではない。教師の方が一歩下がって対処しないと上手(うま)くいかない」と話し、その言葉が印象深く残った。
校長や教頭は児童の保護者が連日のようにやって来て教師を非難するので、クラスの子供たちに確認も取らずに「体罰はあったんだね」として教師に謝るように伝えたのだという。教師も丸く収めるために謝ってしまった。
取材して1日で報道されている内容と大きく乖離(かいり)があるのに気が付いた。
ところが、保護者による執拗(しつよう)な教師への非難や、校長のはっきりしない態度、メディアによる過熱報道も重なり、教育委員会は教師の弁明に聞く耳を持たずに教師に停職6カ月の処分を下した。教師はいつの間にか殺人教師にされてしまった。
この事件がでっちあげだと多くの人が気付いた頃に、教師を悪者だとなぜ信じたのか当時の西日本新聞の記者に聞いた。すると、教育委員会が処分を行い、久留米大学病院の精神科医が子供を重度のPTSDだと診断したからだという。
ただ、教育委員会と精神科医は、メディアの過熱報道の圧力に押されて処分や診断をした可能性が高く、メディアが真実を歪(ゆが)めたといえる。
児童の保護者は提訴までしていた。今考えるとおかしいのは、もし児童への暴力が本当ならば被害届を出して刑事事件にしてもいいのに、保護者はそれをしていなかった。裁判では次々と保護者の嘘がばれていった。ただ、一審と高裁では教育委員会という公的機関が教師に処分を下したというのが大きく影響し、教師は裁判では勝てなかった。教師が福岡市に不服申し立てを行い、事件から10年後にこの申し立てが認められて冤罪がようやく晴れた。映画では事件が少しデフォルメされているが、先生とその家族にとっては地獄のような日々だったと思う。
教育現場のいじめを巡る事件は、メディアが学校や教師を「悪魔化」し、決め付けて報道することで、教師たちにとって非常に不利になっている。メディアは事件があると、最初から学校側が何か隠蔽(いんぺい)しているのではないかとストーリーを作り上げてしまう。
子供が自殺などで亡くなった場合は、その親はある種の「無敵状態」となり、顔や名前を出して話すとメディアはそのままに報道する。保護者の話を疑うことがタブーとなってしまう。
本来、自殺まで行く場合の原因は複合的だ。しかし、メディアは単純化し、誰かがいじめて教師がきちんと監督しなかったという図式として報道する。学校側が家庭の方にも問題があったのではと言い出せない状況を作り上げるのだ。
週刊誌の記者らは学校関係の記事では、確認が不十分なままに報じる「飛ばし記事」を平気で書く。それは、学校や教師がほとんど抗議しないからだ。これは家庭連合の報道についても通じる部分がある。家庭連合のメディア取材でもこのような「図式化」が最初から行われており、家庭連合をメディアが「悪魔化」した。
新聞社やテレビの記者になぜ家庭連合信者への強制改宗目的の拉致監禁について報道しないのか尋ねると、家庭連合を少しでも利するような報道を行うことで読者や視聴者からの抗議や非難が怖いからだという。ここのおかしな点は、読者らは、メディアの報道内容の影響で教団に悪いイメージを抱いているということだ。負の無限ループになっている。
朝日新聞の記者がある記者会見で家庭連合の会長に、世論を騒がせたことを謝罪するよう執拗に責め立てていたが、その責任の一端は非中立・不公平な報道を行ったメディア側にもあるのではないか。
メディアはさまざまな問題で今や「第一の権力」になっている。皆がメディアを恐れている。
もちろん家庭連合側にも問題がある。以前は不当な非難がされていても、反論も主張もしなかった。それによって家庭連合は悪いところだという理不尽な社会的スティグマが捺(お)されてしまった。
昔から書店に溢(あふ)れる家庭連合批判の書籍には間違いが多くある。本来は一冊一冊に抗議すべきだった。どうせ聞いてくれないと諦めて社会に背を向けるのではなく、理解してもらう努力をもっと行う必要があっただろう。
私が残念に思うのは、拉致監禁された元信者の証言が解散命令請求の根拠になったことだ。もちろん、警察に訴えても何もしてくれず、法務省に訴えても駄目だったという四面楚歌(そか)の状況は聞いている。しかし、主張すべきところ、反論すべきところは広く社会に訴えて、どこかで負の連鎖を食い止める必要があった。