トップオピニオンインタビュー【持論時論】中学生がロシア兵墓地を清掃 松山ロシア兵墓地保存会会長 菅田顕氏に聞く

【持論時論】中学生がロシア兵墓地を清掃 松山ロシア兵墓地保存会会長 菅田顕氏に聞く

終わると線香供え整列黙祷 ウクライナ侵攻影響なし もてなし文化で校内暴力も収まる

すげた・あきら 昭和12年松山市の生まれ。小学校3年で空襲を体験。愛媛大学教育学部を卒業し、中学校の数学教師に。愛媛大学付属中学などを経て小学校長を最後に定年退職。松山ロシア兵墓地保存会第2代会長。愛媛大学同窓会副会長。令和7年の春の叙勲で瑞宝双光章を受章した。
愛媛県松山市立勝山中学校の生徒たちは昭和58(1983)年から月に1度、100人以上が市内にある日露戦争時のロシア兵墓地の掃除を自発的に行い、ロシアのウクライナ侵攻でも変わることなく続けている。その歴史を、松山ロシア兵墓地保存会の菅田顕会長(88)に聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

――昨秋から今春にかけて再放送されたNHKのテレビドラマ「坂の上の雲」の最終話で、主人公の秋山真之が、あまりにも多くの人の死を見たので、海軍を辞めて僧侶になり、日本兵、ロシア兵の別なく弔いたいと語るシーンが印象的でした。ところで、松山市には、日露戦争で捕虜になり亡くなったロシア兵の墓地がありますね。

日露戦争が始まった明治37(1904)年、日本で初めての捕虜収容所が地理的に戦地に近い松山に設けられ、投降した約6千人のロシア兵が収容されていました。当時の松山の人口3万人の20%にもなります。

世界に認められるため国際法を遵守(じゅんしゅ)するのが明治政府の方針だったので、捕虜たちは人道的に扱われ、病棟が準備され、外出は自由で、道後温泉の入浴や観劇も楽しめ、市民との交流もありました。そのうわさはロシア兵にも知られ、彼らは投降する際、「マツヤマ!」と叫んだそうです。

そんな捕虜のうち、病気や戦傷で亡くなった98人が眠るのが「ロシア兵墓地」で、戦前は国の管理で何度か移転し、現在は松山大学御幸キャンパスに隣接した高台にあります。日本式の墓石は祖国がある北を向いていて、98人のうち4人はウクライナ人です。

――そのロシア兵墓地を地元の中学生が掃除するようになったのは。

戦後、幾つかの墓地は放置されていたのですが、昭和35(1960)年に松山市が購入した当地にまとめ、地元の婦人会や老人会が彼岸にお花を生けたりしていました。

国際教育が提唱されていた昭和58(1983)年、近所にある松山市立勝山中学校の京口和雄(としお)教頭が墓地の清掃を思い付き、生徒たちに相談したところ、生徒会の活動として毎月、第2土曜日の朝9時から、自主的に取り組むことになったのです。京口さんは仲間とロシア兵墓地保存会を立ち上げ、初代会長になりました。私は愛媛大学付属中学で同僚だった縁で、京口さんに後を託されたのです。

――清掃はどんな手順で。

生徒会長の指示に従い、まず整列して、墓石の周りの草を抜き、落ち葉を拾います。次に、墓石に水を掛け、雑巾やスポンジで墓石を磨きますが、仏様なので墓石の頂上には手を掛けないように気を付けています。掃除が終わると線香を供え、整列して黙祷(もくとう)します。

――保存会の活動は。

会員の多くは元校長で、生徒たちのサポートをしながら、毎月奇数週の木曜日10時半から墓地の清掃をしています。

――墓地に胸像があるワシリー・ボイスマン大佐とは。

日露戦争時、旅順艦隊の戦艦ペレスヴェートの艦長で、日本軍の砲撃を受けて負傷し、捕虜になりました。重傷のため、ハーグ条約に基づき帰国するよう伝えられたのですが、捕虜になった部下たちが松山に護送されるのを知って帰国を辞退したのです。大佐は松山で傷病兵と同じ病棟に入り、治療に専念しました。それを知った市民は、武士道に通じる精神だと称賛したそうです。しかし、大佐は明治38(1905)年に亡くなり、葬儀には600人を超す松山市民が参列しました。

大佐の胸像は、平成5(1993)年に松山を訪れたロシアの作家ヴィターリー・グザーノフ氏が、その話を聞いて感動し、胸像を贈呈したいと申し出たのです。胸像は京口会長がモスクワに受け取りに出向き、平成6年10月25日に除幕式が行われました。

雨の中、墓掃除をする中学生(保存会提供)

――生徒の自主的な取り組みに感心しますが、それによって何か変わりましたか。

印象的だったのは、1970年代末から80年代にかけて全国の中学校に校内暴力の嵐が吹き荒れ、勝山中学校でも同様だったのですが、それが不思議に収まったことです。亡くなった人たちの霊を慰める、地域社会に貢献するという気持ちと行動が、思春期の彼らの心に大きな影響を及ぼしたのだと思います。大人たちが叱り、指導しても容易に変わらないのですが、子供たち自身が行動したことで、自分の力で変えていったのです。

――何度も表彰されていますね。

昭和63(1988)年には内閣総理大臣賞を受賞し、平成17(2005)年には内閣府から善行青少年及び青少年健全育成功労者賞を受賞しました。平成15年には、当時の小泉純一郎総理が、勝山中学校生徒会と一緒に墓参しています。

――ロシアのウクライナ侵攻の影響は。

全くありません。これまでと同じように清掃活動を続けていますし、それを批判するような市民の声も聞かれません。

――四国には霊場巡りのお遍路さんを接待する「おもてなしの心」がありますが、その表れでしょうか。

私たちは子供の頃から、人を大切にするよう、親たちに教えられてきました。松山にもそうした文化があります。

――松山市には子規記念博物館と坂の上の雲ミュージアムがあります。

司馬遼太郎が秋山真之を知ったのは父の蔵書にあった正岡子規を通してで、同じ文学への志を持ちながら、兄好古の勧めで軍人になるため下宿に置き手紙をして去っていく真之に、「目に痛いほどのおもいをもって明治の象徴的瞬間を感じた」と小説に書いています。

その心的情景を描いたのが『坂の上の雲』で、日本史に例外的な明治の30年を、松山の城下に生まれた3人の若者の物語として描いたのです。


 【メモ】松山市は俳句王国でも知られる。子規の後を継いだ高浜虚子は著書『俳句入門』で「元禄に興隆して享保に衰微し、天明に再燃して天保に墜落し、明治に至りてさらに復活せんとするわが俳句」と述べている。大河ドラマ「べらぼう」の時代からの俳句史で、子規や虚子、夏目漱石らは江戸の文芸遺産を継承し、近代文学としての短文詩を確立した。漱石の『吾輩は猫である』は、虚子が編集・出版する「ホトトギス」に虚子の勧めで掲載された。

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