
集団自決が起きた第二世羅村 祈念法要で「一隅を照らす」
今年は終戦から80年の節目の年。戦争を体験した世代は少なくなり、戦争の悲劇が語られる機会も減っている。広島県世羅郡世羅町の宝性寺(天台宗)住職で、同郡文化財協会元会長の山下義心さんは3年前、証言集「満州開拓あの時」の発行に力を尽くし、これからも追録を発行し世界平和に貢献したいと語る。戦争の記憶を残すことへの思いを聞いた。(聞き手・森田 清策)
――戦争の記憶、特に旧満州(現在の中国東北部)開拓団について証言会を開き、書き残そうと思ったのはどうしてですか。
私の伯父は昭和15年7月、国策に協力し郷土の知人と大規模農業をしたいと考え、妻と3歳の長男を連れて旧満州に渡り第一世羅村に入植しました。
戦争については子供の頃から愛国少年だったし、いろんなことを聞いてきました。満州開拓について記録を残そうと思ったのは平成28年1月29日のことでした。作家の五木寛之さんがNHKテレビで自身の満州体験を語られたのを聞いたことがきっかけでした。
五木さんが13歳の時、一家が夜、ロシア兵に襲われ、ご本人と裸にされた父親が手を挙げて立たせられた。ロシア兵が母親の寝ている布団を銃剣で剥ぎ取ると、母親の口から出血していました。そして、ロシア兵は布団ごと外に放り出した、と語られました。
五木さんは長生きの秘訣(ひけつ)は、これだけは片付けておかなければ死ねないというものを持つことだ、と話を締められました。この放送を聞いて満州のことをもっと詳しく聞いて書き残そうと証言会を開き、証言集作りに取り組みました。
――証言集「満州開拓あの時」は令和4年に発行されています。
戦後80年が経(た)ち、日本人は戦争のことは過去のことにしてしまっていますが、特に広島県では忘れないようにしなければなりません。満州に渡った人たちは皆さん高齢になっていましたから、早く証言会を開いて書き残し、世界平和の一助にしたいと思いました。そこには開拓団や(青少年)義勇軍などとして満州に渡った16人と、中国残留孤児とその家族の証言を収めています。
――広島県からは、開拓団や義勇軍として1万2千人が満州に渡っています。世羅郡と満州開拓との関係は。
明治27(1894)年、日清戦争となり、10年後、日露戦争が起きましたが、同年、広島城跡に大本営が移ってきてから、広島県は大本営に協力を求められてきました。世羅郡は国策に率先して協力し人口が少ないにもかかわらず二つの開拓団を出しました。第一世羅村と第二世羅村です。人口比率から言えば、満州に渡った人は、県内で世羅郡が最も多かったのです。6歳の私は、朝早く起こされ、霜が降りて寒さに凍える中、兵隊さんや義勇軍を見送りました。

――終戦後、開拓団では悲劇も起きたそうですね。
世羅郡津久志村で助役をされていた方が第二世羅村の団長をされていたのですが、その団長さんは村民全員に帰国命令を出しました。しかし、第二世羅村保安屯で、屯長家族6人をはじめ51人の集団自決がありました。糖尿で歩行が困難だった屯長さんは「満州に骨を埋める覚悟できているのだから」と自決することを決めたのです。
開拓団には、若い女性や子供もいたので帰国したかったと思います。しかし、強い団結力と大和魂から、屯長家族をおいて逃げ帰るわけにはいかないと、家族に向けて銃の引き金を引いた屯長さんと共に、服毒したりして自決されたのです。満州開拓の最大の惨事でした。
団長さんは終戦の翌年に帰郷されました。しかし、惨劇の責任を感じておられ、10年後に自死されました。
――証言を聞いて感じたことは。
国策から全国的に村長だけでなく小学校の校長、担任も若者や教え子に「満州へ行け」と勧めた国家総動員。村民も「国のために」と、満州に渡ることを決めたのです。奉仕隊として行った十代の女性たちもいました。教育の力はすごいものです。
ある女教師は満州に渡ることを勧めた責任から、教え子たちを心配し満州に行ってみたら、女子生徒全員並んで首つり自死していたことを知り、衝撃を受けて帰国したという証言もありました。
――天台宗の僧侶が中心になって、平和公園(広島市)で毎年7月14日、平和祈念法要を続けていますね。天台宗は「一隅を照らす」という言葉で特徴付けられますが、平和運動もその考えに基づいているのですか。
「一隅を照らす」とは、今ある場所で照らしましょう、今ある場所を大切にしましょう、今日一日を大切にしましょう、ということです。
原爆供養塔前での「世界平和の祈り」祈念法要は昨年20周年を迎えました。今年も7月14日に行われます。
――これからやりたいことは。
証言集を一冊作りましたが、書き残したことがたくさんあるので、追録を作りたい。また、特に日本の若者、農業青年が命を懸けて戦い、たくさん亡くなったことを書き残したい。戦争の悲劇について、私たちは決して忘れてはならないと思います。
【メモ】満州開拓は昭和7(1932)年から終戦の20(1945)年までの14年間続いた。その間、約27万人が農業移民として満州に渡り、そのうち約8万人が亡くなった。山下さんは最後に、昨年開催した「平和祈念の集い」と原爆証言や、人間爆弾「桜花隊」などについても書き残したい、と静かに語った。
山下さんにインタビューした私の大叔母(祖父の妹)も婚姻開拓団として満州に渡り、終戦直後に満州で亡くなった。大正10(1921)年生まれだから、たぶん10代で開拓団員の花嫁となったのだろう。インタビューしながら、大叔母はどんな亡くなり方をしたのか、と胸が締め付けられた。