教団の自覚と反省は必要

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、東京地裁が3月25日に下した解散命令に不服として、4月7日に東京高裁に即時抗告した。東京西バプテスト教会の黒瀬博牧師に解散命令の妥当性、裁判の行方、日本の「信教の自由」などについて聞いた。
(聞き手・豊田 剛)
――家庭連合に解散命令が出た。
日本国憲法、国際法、宗教法人法のいずれに照らしても不当な決定だが、それがまかり通ることは、今後の歴史の中で日本裁判史上の汚点として記録されることになるだろう。それと共に、解散命令を強引に出させた弁護士たちも歴史の審判を受けることを覚悟しなければならない。彼らがやっていることは、中世の異端審問官と同じだ。
バプテストという教派に属する牧師として言いたいことだが、バプテスト教会は設立当初から他のキリスト教会から迫害された歴史を持っている。国家が宗教の自由を制限することについては、ことのほか強く反対している。
――日本で信教の自由が重んじられない原因は。
その一つは、「宗教の自由」という単語が間違って翻訳されて、一般に使われていること。日本の法律用語としては「信教の自由」。英語に直せば、「Freedom of Religion」で「宗教の自由」としか翻訳できない。ところが、明治政府は、「宗教の自由」という表現を嫌って「信教の自由」という訳を作り上げた。その間違った翻訳を戦後になっても使い続けていること自体が、日本の法律家が宗教の自由を真剣に理解していないことを示している。すでに国際法の翻訳では「宗教の自由」と訳されているから、日本国内法においても「信教の自由」ではなく「宗教の自由」として語らなければならない。
こうした翻訳問題についてさえ、法律家が何も発言していないこと自体が、日本の法律家の怠慢だ。その怠慢さの結果が、今回の家庭連合への解散命令を引き出す一つの原因をつくっているように思える。
――解散命令は他の政治・宗教団体の解散を容易にすることにならないか。
今回の解散命令が不当であることは、すでにネットや一部の報道機関で指摘されているが、日本共産党でさえもこの解散命令を絶賛しているわけではなく、むしろ恐れている。しんぶん赤旗には、家庭連合への非難がたびたび載せられているが、解散命令については微妙な言い方をしている。解散命令の論理を使うと、それがそのまま日本共産党の解散命令に直結することを彼ら自身がよく分かっているからだ。
また、多くの宗教団体も社会からのバッシングを恐れて解散命令に明確に反対の意思を示していないが、微妙な言い方をしている。やはり、この論理が自分の団体への弾圧に使われる可能性があることを感じているからだろう。
――解散命令の根拠があいまいではないか。
今回の解散命令は、法律的にも、実際的にも非常に問題があることは多くの人がすでに気が付いている。それでも、裁判所が解散命令を出そうとしているのは、家庭連合側にも問題があると指摘しておきたい。家庭連合の人々は見ようとしていないか、あるいはまだ気付いていないかもしれないが、自覚と反省なしには解散命令は不可避であることを理解しなければならない。
裁判所について言うと、法律に基づいて判決を下すというのは建前であって、実際は国民感情を考慮して判決を出すものだ。ただし、判決文の中にそれを書き込むことはできない。判決文を読むだけでは裁判官の気持ちを見ることはできないが、結論は国民感情に沿った内容になることがほとんどだ。
和解で「解散」回避できる
――家庭連合に対する国民感情は決して良いものではない。
むしろ、非常に悪いものであるという現実がある。他の宗教と異なり、なぜ国民が家庭連合だけに悪い感情を持っているのかと言うと、その原因は家庭連合が韓国発の宗教であり、日本人信徒の献金が韓国に送金されていると言われていることにある。
宗教改革が起きた原因も、免罪符を買うドイツ人のお金がイタリアのバチカンに送られていることへの反発にあったことを思い出してほしい。お金の問題は国民感情を逆なでするものだ。しかし、宗教改革のときも、免罪符の問題は公の議論にならず、表面上はルターの信仰義認論によって宗教改革が起きたことになっている。
家庭連合への解散命令の背後には、日本人のお金が韓国に流れることへの国民的反発があるのだが、それは決定文には書かれない。過去の霊感商法とか教義が問題の本質ではないことを悟らなければならない。
――「国策」のように裁判が進んでいる印象だが、解散命令を防ぐことは可能か。
ここはお互いの妥協が必要になる。裁判所が解散命令を行使しない代わりに、家庭連合側にも一定の約束をさせる。双方が和解することで解散命令をペンディングできる。国民感情にも合致し、法律上問題のある解散命令を出さなくて済むことになる。
文科省にしても裁判官にしても、本当は解散命令など出したくない。もしこのやり方が可能であるなら、裁判所も日本政府も国際社会からの批判を回避することができるし、国民感情もなだめることができる。ここが落としどころではないか。