
「女房に逃げられる」屈辱も 全否定されても諦めず
――温暖な岡山出身ですね。
岡山県も北部と島や海岸部などの南部とではかなり違います。
私の育ちは、北部の苫田郡上齋原村(とまたぐんかみさいばらそん)(現鏡野町)です。岡山県といっても鳥取県に近い山間部で冬になると2㍍近い雪が積もります。だから冬に帰省することはありません。
――歌との出会いは。
学校に行きだすと、NHKの「のど自慢」に何回か出て、鐘は何度か三つ取ってました。
中学を卒業して、大阪の中山製鋼所に幹部候補生として入社しました。昼間は工場で働き、夜、夜間高校に通って3年間、全日制と同じ単位を取って修了しました。
高校2年時には、片班の責任者になりました。工場は24時間操業で、12時間単位で20人くらいが働いています。片班というのは、2交代制の1グループのことをいいます。その責任者になったものですから、面倒を見るというか現場の小言を聞かないといけないのです。それを事務所に伝える中間管理職です。
当時は短気で喧嘩早かったから、ストレスはたまる一方でした。当時の写真を見ると、まだミドルティーンなのに、一気に老け込んでしまったと思うほどでした。
この頃から、ギターを買って一人寮の部屋でポロポロ弾いて寂しさを紛らわしていました。寮では放歌高吟は禁じられていましたから、小さな音でひっそりした演奏です。
3年の頃、大阪ではロカビリーなどが流行(はや)っていて、私もジャズ喫茶「ナンバ一番」で「ザ・ポップコーンズ」というバンドをやっていました。
東京に出て行くことになったのは1964年で、東京オリンピックがあった年です。
列車内で私の前に座った女性が2人いたのですが、春日八郎さんのバックコーラスを担当していて、昨日終わったので今日帰るのだということでした。彼女たちは「東京に出るようだけど、何かあったら電話ください」と自分たちの名刺を渡してくれました。
それで東京に出て、4年後に電話したのです。その間、蕎麦(そば)屋の住み込みで働いていました。
その縁で春日さんのお師匠さんに当たる作曲家の吉田矢健治先生から「お前も歌が好きだったらレッスンに来い」と誘われて、豊島園に行くようになったのです。
3回くらいはお金がなくて、四谷4丁目から歩いて行ったものです。
それでレッスンが始まるのですが、声を出す前におなかの音の方が大きいので、見かねた吉田矢先生が「お前、母屋に行ってメシを食って来い」と言われたりしました。
譜面を書くのを覚えたのは、その頃の話です。吉田矢先生の縁で音楽出版部に手伝いに行くようになり、曽根幸明(こうめい)先生から「山本、譜面が書けるのだったら、俺の写譜でもしてみないか」と誘われたのです。
――音楽の一本道に、迷いはなかったのですか。
夜間高校に通わせてもらった会社を辞めて歌の世界に飛び込もうとした時、上司からは「何を寝ぼけたことを言っているのか」とあきれ果てられました。
最初の妻は、音楽にのめり込んだ夫の不在に耐えかねて「私はもっと幸せになりたい」と言って出て行きました。当時、テレビの音楽番組を担当していたものだから、私は音楽のために夢中でした。
私は音楽のために妻を捨てたようなものです。
形の上では協議離婚でも、世間一般の言い方をすれば、私は「女房に逃げられた男」という屈辱的な立場でした。
母親からは「お前には音楽の才能なんてない。親じゃけえ一番よう知っとる」と言われました。
だが誰に何を言われようと、音楽を諦めることは絶対できなかったのです。
ただ音楽が好きだというだけでその世界に入り込み、周囲の状況がどう変わろうとそこから一歩も出ようとはしなかったのです。私ほどわがままで剛情な人間はいないと自覚していましたが、幸せ者でした。
例えて言えば、オモチャ屋の前で駄々をこねている子供と大差はないのです。
誕生日は5月5日の「こどもの日」です。この年になっても、いつまでたっても子供だといじられています。
そんな自分が曲がりなりにも作曲家として今日いられるのは、母や妻(再婚)、子供、友人、知人らのおかげです。
――故郷の岡山への貢献度は高いのでは。
岡山では「音楽と花火の祭典」を何度も開催しました。
岡山放送にこのイベントを持ち掛けて、93年から毎年7月の最終土曜日に開催するようになったことがあります。93年には、初回にもかかわらず5万人が集まりました。最後となった10回目では10万人です。
東京からオーケストラ50人を引き連れて行うのです。当初、あんな所に人が5000人も来るはずがないと言われた。当時、サンケイリビングの山路昭平社長が岡山放送に赴任しておられました。山路社長は「赤字になっても岡山の文化的なことはやらなきゃいけない」と言ってくださり、上から言われて渋々協力した社員も多かったのです。
ところがふたを開けてみると、道が車列で埋まるような事態になったのです。
長野士郎岡山県知事は、笠岡からこの祭典に行くのに大渋滞で動けなくなり、消防のヘリで飛んだということもあったほどです。
長野知事は上空から見下ろし「何ということになっているんだ」と、ものすごく喜んでくださったのです。
私は「暴力団追放の歌」とか「機動隊の歌」とか書いているものだから、岡山県警の音楽隊も出演してもらって、オール岡山というスタイルでの「音楽と花火の祭典」になったのです。
(聞き手=池永達夫、日本伝統文化コーディネーター・藍川裕)
【メモ】音楽というのは文字通り、音を楽しむものだ。その意味では聴いて楽しむのと、聴かせて楽しむ2種類が存在する。山本氏は作曲家として、聴かせる音楽作りに全精力を費やしてきた。だが、作り手として一方的な音楽作りに埋没することはなかった。常にライブ興行を欠かさないし、昨年は高田馬場で住民を巻き込んだ盆踊りを開催するなど、水滴が水面に落ちて輪を広げるような作曲家を心掛けている。インタビューの初め、90歳までは歌を作り続けたいと言っていたが、最後に「死ぬまで」と修正した。