
冬になると春を告げる梅の花の便りを心待ちにするようになる。万葉人が歌に詠んだ花で一番多いのは萩、次いで梅で、桜よりも梅が愛されていた。奈良市在住の万葉の花研究家・片岡寧豊(ねいほう)さんに、代表的な梅の万葉歌を取り上げ、梅に託した万葉人の思いや、薬としても使われてきた梅の効用をうかがった。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――奈良の梅の名所は。
京都、三重、奈良の境にあり、国が最初に指定した名勝の一つ「月ケ瀬」ですね。月ケ瀬梅林は渓谷に五月(さつき)川が流れ、両岸に約1万3000本の梅が咲いています。奈良市から月ケ瀬梅林まで車で約1時間、バスはJR奈良駅か近鉄奈良駅から約80分です。
――古代では桜より梅が好まれたのですね。
万葉集には梅を詠(うた)った歌が118首もあって、花では萩に次ぎ、桜は40首ほど。清楚(せいそ)な花とほのかに漂う甘い香りが春の訪れを真っ先に知らせるからで、古代から日本人は香りに敏感だったのです。万葉の時代、梅は宮廷や豪族の邸宅の庭に植えられ、しばしば「観梅の宴」が催されていました。
「春されば木末隠(こぬれがく)りてうぐひすそ 鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に」山氏若麻呂(さんじのわかまろ)(春になると梢(こずえ)に隠れてウグイスが、ウメの下枝に鳴きながら飛び移って行くのが感じられる)
この歌は、天平2年(730)正月、九州大宰府の長官、大伴旅人(たびと)の邸宅で宴会が開かれた時、集まった官人たちが詠んだ梅花の歌32首中の1首です。
客人の山上憶良は「春さればまづ咲くやどの梅の花 独り見つつや春日暮らさむ」(春が来ると真っ先に咲くのが梅の花ですが、一人で見るのは味気ない)と詠っています。後半は、妻を失って間もない旅人への気遣いを込めたのでしょう。
大宰府での勤務を終えて故郷に帰った旅人は「吾妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに 心むせつつ涙し流る」(大宰府に発(た)つ前に妻と一緒に植えた梅の木を、今ひとりで見ると、妻が恋しく涙が流れる)と詠んでいます。
――男泣きですね。
昔の男性はよく泣いたのですよ。武士もそうで、それだけ情感が豊かだったのでしょう。
――太宰府天満宮には菅原道真にちなむ「飛梅」があります。
樹齢千年を超えるとされる白梅で、本殿前の左近(本殿に向かって右側)に植えられています。太宰府天満宮に植えられた梅の中では一番先、2月初旬に咲き始めます。
政争に敗れ、大宰府に左遷された道真が、日ごろから愛(め)でてきた庭の梅の木に「東風(こち)吹かばにほひをこせよ梅花(うめのはな) 主なしとて春を忘るな」と詠んだところ、梅が大宰府まで飛んできたという伝説ですね。
――梅の原産地は中国ですか。
約1400年前に遣唐使により、薬木として持ち帰られたそうです。『古事記』『日本書紀』に梅は書かれておらず、漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』に初めて出ているので、中国から伝来したのでしょう。ウメは漢名「梅」。ウメの名は中国語音メイの転訛(てんか)説や薬用にする燻(ふす)べ梅、すなわち「烏梅(うめい)」、今の「烏梅(うばい)」からきたとの説があります。奈良市月ケ瀬で中西喜久(よしひさ)さんは父中西喜祥(よしただ)さんの後を引き継ぎ、梅の実を燻(いぶ)して天日干しする烏梅の伝統製法を、邦子夫人と共に守り続けています。烏梅は紅花染めの発色材にも利用されますよ。
梅は九州に自生していたとの説もあり、近年、壷(つぼ)に入った種子が弥生時代の遺跡から出土したので、そうかもしれません。白梅か紅梅かは不明です。現在、各地で栽培されている梅は中国からの移入種で、日本では奈良時代から庭木として親しまれ、江戸時代には果実用に栽培されるようになります。
奈良時代には、梅の実は柿や桃、梨、あんずなどと同じく生菓子に加工して食べられ、その効用から梅の塩漬けが食薬品として用いられるようになります。「梅干し」が初見は平安時代中期で、村上天皇が疫病にかかった時、梅干しと昆布を入れたお茶を飲んで回復されたという記録があります。
梅干や梅肉エキスは食あたり、下痢に効き、梅酢は防腐作用があり、梅酒は美味で健康増進の薬効もあります。ショウガなどを漬け込むのもいいですよ。

――太宰府天満宮には広大な梅林があり、梅の製品も売られています。
旅人は「我が園に梅の花散るひさかたの 天より雪の流れ来るかも」とも詠んでいます。「我が園に梅の花が散りしきっているが、それは空から雪が降ってきたのだろうか」という意味で、旧暦の正月は新暦の2月上旬ですから、雪が降ることも多かったのです。
万葉の時代には梅の花を酒盃に浮かべる風習があり、大伴(おおともの)坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は「酒杯に梅の花浮かべ思ふどち 飲みての後は散りぬともよし」(梅の花を杯に浮かべて皆で飲もう、飲んだ後なら花が散ってもよい)と詠っています。
宴で大弐紀卿(だいにききょう)が詠んだ「正月立ち春の来たらばかくしこそ 梅を招きつつ楽しき終へめ」は「令和」の由来となった万葉集「梅花の歌三十二首并せて序」に収録されています。「正月になり春がやって来たならば、毎年このように梅を招き寄せては楽しみの限りを尽くそうではないですか」の意味で、「梅花の宴」で詠まれた32首にはすべて梅の花が含まれています。
――「桃栗三年、柿八年、梅はすいすい十三年、柚子(ゆず)の大馬鹿十八年」というのは。
ウメとモモは同じバラ科サクラ属ですが、種子から育てるとウメは10年ほど成長が遅く、モモは早熟ですが、木の勢いが衰えるのも早い。ユズは最も成長が遅く、忘れた頃に結実するので大馬鹿と呼ばれたのですね。
ウメの寿命は100年から300年と長く、見事に開花した500年以上の老木を見たこともあります。梅を愛した万葉人の心を偲びながら、初春の梅林を歩きたいですね。
【メモ】妻の実家がある長野県に住んでいた頃、義母がよく作ってくれたのが青梅の砂糖漬け。初夏に冷水で割ってジュースのように飲むと、爽やかさが喉に染み通った。父親譲りの酸味好きで、温かいご飯に梅干しは、生きていてよかったと思う。梅が薬木として中国から入ってきたのもうなずける。高松市の栗林公園は高松松平家の大名庭園で、水戸徳川家から来たからか立派な梅園がある。季節の花々を愛でながら齢(とし)を重ねていきたい。