トップオピニオンインタビュー敏達天皇手彫りの八幡神祀る 浪打八幡宮創建の不思議 浪打八幡宮宮司 吉田成隆氏に聞く【持論時論】

敏達天皇手彫りの八幡神祀る 浪打八幡宮創建の不思議 浪打八幡宮宮司 吉田成隆氏に聞く【持論時論】

八幡宮が全国に約4万社もあるのは、源氏の氏神となり各地の武士が地元に建立したからで、古代では渡来の八幡神が応神天皇と習合し、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に次ぐ皇祖神として位置付けられたことが大きい。香川県三豊(みとよ)市詫間町にある浪打(なみうち)八幡宮に伝わる不思議な創建話を吉田成隆(しげたか)宮司に伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

――浪打八幡宮の創建は。

東国の夷狄(いてき)退治で成果を挙げ、続いて推古天皇の勅命で南海の大乱を平定し、その後は讃岐の三野郡詫間に造営した御殿に安居していた敏達(びたつ)天皇と推古天皇との間に生まれた高村親王が推古12年(604)8月14日の夜、夢の中で高波の中に光るものを見つけました。手に取ると、その金色の木像が「我は敏達天皇が彫られた八幡神で、585年の天皇崩御後、内裏の宝蔵に納められ、見向きもされなくなっていた。このたび、高村親王を懐かしく思い、難波の港より海を渡り、宅間の入り江にやって来た。これから先、この地に留(とど)まろうと思う」と告げたのです。驚いた親王が詫間荘の守護神として祀(まつ)ったのが当社の創建で、八幡神の総本宮である宇佐神宮創建の571年から33年後のことです。

――高村親王とは。

一説では、高村親王は敏達天皇と推古天皇の間に生まれた竹田皇子(たけだのみこ)と考えられています。竹田皇子の名は、廃仏派であった物部守屋との戦い(587年)の参加者として確認できますが、推定10歳未満のため名前のみの形式的な参加と思われます。その後、正史から一切の記述がなくなり、40年後の日本書紀に「推古天皇は、死んだら竹田皇子と合葬するように遺詔した」との記述があることや、598年に推古天皇が高村親王に詫間領有の綸旨を下していることから、やはり高村親王と竹田皇子は同一人物であった可能性が高いと思います。 そうであるなら、父に従い廃仏の考え方を持っていたと考えられ、廃仏派の物部守屋に近いため、崇仏派の蘇我氏に命が狙われることを危惧した推古天皇が、詫間に隠れ住まわせた可能性が高くなります。

――創建後の推移は。

夢に見たことで、浪打八幡宮の創建を都の推古天皇に進言した高村親王は、社殿の創建に合わせて中臣の宿禰(すくね)職である宝寿彦を別当として呼び寄せ、敏達天皇が造られた八幡神像を大切に安置し祀ったと伝わります。

八幡神が天皇直轄の詫間荘の守護神になるには、宣託のあった604年に、八幡神が応神天皇と同一であるという考え方が朝廷側で共有されている必要がありました。宇佐地方の土着の神である八幡神が応神天皇であるという認識は、571年にさかのぼると言われています。宇佐神宮の社伝によれば、571年に八幡神が3歳の童子に姿を変え、自分は応神天皇であると託宣され、その託宣を大和国から派遣されていた大神(おおみわ)神社の神官が聞いたということです。これを契機に、八幡神と応神天皇は同一(習合)という考えが次第に都に広まったと考えられます。

従って、604年に詫間で「八幡神の木像が、我は応神天皇なりと託宣した」との報告がなされても、朝廷に違和感はなかったのでしょう。讃岐国での八幡神の奉斎はこれが最初とされますが、その後、広がって、香川県のほぼ全市町村に八幡神は祀られています。

――平安時代末期、八幡宮は源氏の氏神になります。

八幡宮・八幡社が全国で約4万4000社というほどに広まったのは、清和源氏が仏教と習合した八幡大菩薩を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請したことが大きい。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、石清水(いわしみず)八幡宮から八幡神を鎌倉に迎えて鶴岡八幡宮を建立、御家人も領地に八幡宮を創建したのです。そうした中世以降の八幡宮の歴史とは異なる、古代の八幡神の広がりの例として、浪打八幡宮の創建は古代ロマンに満ちています。

――当社は瀬戸内航路の要衝にあります。

浪打八幡宮は香川県の西部、瀬戸内海に突き出した荘内半島の付け根部分に鎮座しています。当地には古代から有力な豪族がいて、大和王権と親しい関係を築いていました。その証拠に、藤原京の建設に使われた瓦が、ここで生産されていました。

――三豊市の宗吉瓦窯跡(むねよしがようせき)ですね。

浪打八幡宮の近くにある宗吉瓦窯跡は、四国で最も古い飛鳥時代の650年ごろに生産を始めた瓦焼きの窯跡群です。3基の窯で地元にある妙音寺の瓦を焼き、後には21基の窯で丸亀市の宝憧寺や奈良県の藤原宮の瓦を大規模に生産していました。

1991年の発掘調査で出土した複弁八葉蓮華文軒丸瓦(ふくべんはちようれんげもんのきまるがわら)が、持統天皇が694年に造営した日本で最初の瓦ぶき宮殿である藤原宮で使用された瓦と同一と分かり、藤原宮へ瓦を供給した瓦窯跡として1996年、国の史跡に指定されました。

発掘調査で窯3基は藤原宮への瓦供給以前からのもので最も古く、残る21基の窯は後の時代の同時期に築かれていることが分かりました。操業当初は、3基の窯で地元の妙音寺の瓦を製造し、後に丸亀市の宝憧寺や藤原宮へ大量の瓦を供給するために、21基の窯が増設されたのです。24基の瓦窯は当時、日本最大規模で、古代の瓦生産コンビナートといえます。

当地の豪族は、自ら発願した寺院だけでなく、藤原宮の瓦生産にも深く関わっていました。工人集団を支配する地方豪族が、官営工房の運営に関与していたことを具体的に示す資料として注目されています。

古代、讃岐国には33の大寺院があり、丈六の仏像が鎮座していました。東西100㌔の南海道沿い3キロごとで、しかも16の寺には塔があったので、ランドマークのようでした。平城京に匹敵する景観で、それほど讃岐が文化的、政治的に都に近かったのも、浪打八幡宮の創建に影響したのでしょう。

【メモ】 浪打八幡宮は長い石段を上った丘の上に鎮座しているが、創建当時は一の鳥居の間近まで海が迫っていたのであろう。八幡神は古代、北九州に渡来した新羅の神が豊前の宇佐氏や辛嶋氏の神と習合して生まれたとされる。海の民が深く関わっているのは浪打八幡宮の創建も同じで、話を聞きながら思い浮かべたのは、本尊の聖観世音(しょうかんぜおん)菩薩が海で漁師に拾われたという浅草寺。古代日本の形成には海が深く関わっている。

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