21日断食、水垢離の父 キリストの幻と邂逅
先回は「荒野に水は湧く ぞうり履きの伝道者 升崎外彦物語」を半世紀ぶりに復刊した出版社アートヴィレッジ代表の越智俊一氏に、その経緯を聞いた。さらに升崎(ますざき)氏の筆舌に尽くし難い壮絶な足跡をたどる。(聞き手=池永達夫)
――伝道に赴いたのは、一番難しい土地とされた島根県でした。
任地に赴き路傍で伝道するのですが、誰も聞いてくれません。それでも1000日、一日も欠かさず路傍伝道に励みます。
ある時、遠くに人が立っているのです。自分を捕まえに来た公安かもしれないとも思ったそうです。それが一日一日近づいてくるのです。そしてついに近くまで来て、訳を聞いたら、自分は漁師だと言います。漁をしていても魚が全然取れなくて諦めかけたら、網に本が絡んでいました。それを読むと「右側で魚が取れなければ、左側に網を下ろせ」という文章が目に留まったのです。
これは釣りの本かと思って、それをやってみたら本当に魚が獲(と)れたのです。これはすごい本だと思って読み返すと、実は聖書だったのです。
それで、この一件を忘れることができないでいるのですが、ヤソキチガイがいるという升崎さんのことを聞き付け、わなわなと震えながら近づいて行ったのでした。この漁師が千日伝道の初穂になったのでした。
――村一番の旧家の愛娘(まなむすめ)香代との出会いも感動的です。
升崎さんは、村の橋を誰に頼まれたのでもなく大工道具を持ち出し修理していました。橋の下から修繕に没頭していた時、一人の村人が肥桶(こえおけ)を担いで通ります。ヤソ嫌いの村人は、「よしやってやれ」とばかり肥桶をわざと傾けたので、糞尿(ふんにょう)が升崎さんの頭の上からまともに降り掛かってきました。
さすがに升崎さんは金づちを振り上げ「何するんだ!」と怒鳴ろうとしますが、口にまで汚物がいっぱいに詰まって声が出ません。その瞬間、ハッと気が付いて「おお主よ、お恥ずかしゅうございます。神より遣わされた伝道者が、腹を立てて申し訳ありません。お赦(ゆる)しください」と胸に両手を組んで祈ったのです。
その時、籠に乗った香代はそこを通りかかり、その姿を見たのです。香代は奈良女高師に学んだ才媛。在学中に何度かキリスト教の話を聞いたことがあったのですが、詳しく聞きたいと思ううちにいつしか胸を患い、学業半ばで帰郷、病状ははかばかしくなく、命旦夕に迫るに及び「何とかしてキリスト教の先生に会って死にたい」と願っていたのです。
糞尿を掛けられながら静かに祈っていた升崎さんの姿を見た香代は、父親に頼んで家に来てもらいます。
そして枕元で香代は、単刀直入に救いの要点を質問し、升崎さんは福音を分かりやすく説き明かしたのです。村で迫害の嵐に遭遇しながら逃げ出さないキリストの先生を、かくあらしめている秘密が分かってみれば、香代にはためらうものは何もありません。「先生、私は信じます。どうかここで洗礼をお授けください。そうして安心して神様の御許(みもと)に行かせてください」と願いました。それで枕元の洗面器に入った水で彼女にバプテスマを施したのです。
――父親との確執はどうなるのですか。
わが子を異教の手に奪い取られた升崎さんの父親は、憤懣(ふんまん)やるかたなく何とかしてわが子をヤソの手より奪い返そうとします。手始めに、キリスト教の弱点を突こうとします。
そのため書斎に引きこもり、聖書を手に取り、破邪顕正(はじゃけんしょう)の意気込みで読み始めます。まずマタイ伝から読むのですが、さっぱり分からない。読んでは考え、考えては読み、1章から4章まで読むのに3年も費やしたのです。そしてとうとう66巻の聖書を何度も読み返したそうです。そして「人にして神、神にして人なるキリスト、我が日夜崇拝し奉る親鸞(しんらん)上人とは比較にならぬ、是は一介の僧侶、彼キリストは正に神の独り子」と悟ります。
さらに「キリストならば御姿(みすがた)を現し給え」と21日間、食を絶ち滝つぼで水垢離(みずごり)の荒行を始めたのです。時は2月の厳寒期、65歳のことでした。満願の21日目、滝から上がって岩の上に座し、掌を合わせ念じていると、白衣のキリストが彷彿(ほうふつ)として現れ、父親はその地に倒れ込むのです。
その父親が息子を家に呼び寄せたのです。父親の招きに応じて升崎さんは、12年ぶりの我が家に帰省します。
その日、父親は紋服、羽織袴(はかま)のいでたちで、高貴の客を迎えるように彼を客間に招じ、正座に座らせます。そして自分は次の間に下って、恭々しく両手をつき、今まで勘当を命じた自分の罪を謝したのでした。升崎さんは思いもかけぬ父の謝罪に接し、しばらくは夢見心地でしたが、やがて父子の間に再び春が巡ってきた思いで、尽きぬ話は深夜にまで及んだそうです。
――そういう「キリスト者の証」である「荒野に水は湧く」の本は、自分にとってどういう栄養になったのですか。
それを言われると恥ずかしい限りですが、一番は夫婦関係です。升崎さんが人を無償の愛で尽くしたように、私もまずは妻を愛そうと思ったのです。
妻は心が広く包容力のある人です。これまで40年間、不平を一度も言ったことがありません。お金がないとか、もっと稼げと言って尻を叩(たた)くとか一切ないのです。この会社もつぶれかけたことが何回もあり、妻には迷惑をかけっ放しですが、慌てふためくようなことはありませんでした。「何とかなるわよ」と、いつでも前向きです。「今度こそだめかもしれない」と妻に話した時も、「つぶれても、なるようになるから」と平然として腹が座っているのです。
最近、妻の顔が弥勒菩薩(みろくぼさつ)に見えてくることがあります。
――本は黒字になりそうですか。
経営者ですので出版する時は、損益表を頭に思い浮かべざっと計算はするのですが、それ以前にこの本に関しては自分が出すべきだとの使命感みたいなものがありました。歴史の中で埋没させてはならず、キリスト者の遺産として残しておくべきだといったものです。
そしてこの本に力づけられた自分にしか発行できないといった、責任感みたいなものもありました。
損益に関して言えば黒字になることはないかもしれません。それでもこうした素晴らしい本が存在し続けることが可能なのも、妻の包容力に支えられてのことです。
【メモ】 この本が「越智さんにとってどういう栄養になったのか」と聞くと、「恥ずかしい限り」とはにかんだ。だが、越智さんの友人ががん治療で髪が抜け落ちた時、越智さんはバッサリ髪を刈り坊主頭で病床を訪ねている。闘病生活を送る友人に心から寄り添っていたのだ。聖書の一番の眼目は、「汝(なんじ)の隣人を愛せ」だ。升崎さんの遺訓は越智さんの人生に脈打っていると私は思う。