Homeオピニオンインタビュー親鸞からキリストへ「荒野に水は湧く」半世紀ぶり復刊 (上)アートヴィレッジ代表 越智俊一氏に聞く 【持論時論】

親鸞からキリストへ「荒野に水は湧く」半世紀ぶり復刊 (上)アートヴィレッジ代表 越智俊一氏に聞く 【持論時論】

おち・しゅんいち 昭和29年11月23日、愛媛県宇和島市生まれ。宇和島東高卒業、金沢美術工芸大学美術科油彩コースに学ぶ。画廊で働いた後、独立し出版社アートヴィレッジを立ち上げる。
おち・しゅんいち 昭和29年11月23日、愛媛県宇和島市生まれ。宇和島東高卒業、金沢美術工芸大学美術科油彩コースに学ぶ。画廊で働いた後、独立し出版社アートヴィレッジを立ち上げる。
このほど、キリスト者としての生涯を全うした「荒野に水は湧く ぞうり履きの伝道者 升崎外彦物語」が復刊された。升崎(ますざき)氏は金沢市の東本願寺の寺を継ぐ身ながら、救世軍と出会い受洗、無私の奉仕と迫害を超えての伝道が感動の波を起こした人物だ。半世紀を経て復刊を果たした出版社アートヴィレッジ代表の越智俊一氏に本の魅力を聞いた。(聞き手=池永達夫)

――学生時代、「荒野に水は湧く」に出会ったということですが。

美術大学で専攻したのは西洋画の油絵でした。特にルネサンス時代のミケランジェロに惹(ひ)かれていました。

ミケランジェロは「最後の晩餐(ばんさん)」とか「ピエタ」とか聖書のテーマで礼拝堂などの壁画や天井画、彫刻作品が多くあります。

それを深く知るには、まずは聖書を勉強しないといけないと思って、聖書を読み始めたのですが、残念ながらよく分からないのです。それで教会に行こうと思ってカトリックからプロテスタント、それに街頭で声を掛けられたモルモン教など訪ねました。その頃、「いい本だから」ということで知人から頂いたのが「荒野に水は湧く」でした。それを読んで升崎外彦さんの生きざまに、深い感銘を受けました。

卒業後は東京に出て、画廊に勤め始めましたが、折に触れては読み返していました。画廊で美術雑誌を編集していたこともあり出版に興味を持ち、10年ほどして、美術を主軸にした出版社(アートヴィレッジ)を立ち上げました。それから30年経(た)った記念として、「荒野に水は湧く」の再発行を思いつきました。

――版権とかの縛りはなかったのですか。

「荒野に水は湧く」という本は、田中芳三(よしぞう)さんという人が升崎さんをインタビューしながら書いたものです。それで本の権利関係を調べようと、亡くなっておられる田中さんの、そのお孫さんに連絡を取ると、自分はタッチしないというのです。

升崎さんの方は、和歌山県の田辺に幼稚園をつくっておられます。今はお孫さんが引き継いでいますが、田辺まで足を延ばしました。本の最後に、現在の幼稚園の写真を入れました。

そのお孫さんにも出版の話をしました。お孫さんに権利はないので、報告のようなものです。最後に出版元のキリスト新聞社にも連絡したのですが、半世紀を経て本の存在自体を誰も知らなかったのです。

――升崎さんの何に感銘を受けたのですか。

クリスチャンとして、すさまじい迫害を受けながら信仰を曲げることがなかったのです。さらに迫害する人の心をも変えていきました。

身近な迫害者は僧侶の父親でした。父親はお寺の跡を継いでほしかったのです。

ですが升崎さんは、思春期に疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代を迎えます。「人生とは何か」との大きな問題に突き当たり、空虚な寺院生活への煩悶に彼は悩みました。何とかして充実した信仰、彼にとっては人生そのものの「道」を発見したかったのです。

そこで哲学に助けを求めるのですが、そこでは魂の安住も心の糧も得られません。そこで、宗教書を片っ端から読破し金沢市内外の名僧という名僧を訪ねては道を問い、真理を求めて門を叩(たた)くのです。しかし、惰眠をむさぼる伽藍(がらん)宗教の腐敗や安心立命を得られぬ教理などを目の当たりにして、悩みは深まるばかりでした。理屈ではうなずくことはあっても、生命の躍動がないまま行き詰まってしまいます。

それでもキリスト教だけは一切、触れようとしませんでした。

「すべての宗教の中で一番下等で迷信的なもの」と、父から強く教え込まれていたため、生理的に拒否していました。

その彼がついに人生に絶望し、「万有の謎を死をもって解決せん」と自殺未遂は6回に及びました。そして7回目は周到に準備し、金石(かないわ)海岸で死を遂げるべく、時間が来るまで金沢市内をウロウロ歩き回ります。

金沢市内からバスで1時間ほどの金石海岸というのは、学生時代に私が下宿していた所でした。

――不思議な縁ですね。

結局、彼は死を前にした金沢で身震いするほど、いやなものに出くわすのです。

それは路傍伝道をしている救世軍でした。彼は踵(きびす)を返して一目散に駆け抜けようとしました。その弾みにいやというほど電柱に頭をぶつけよろめき倒れるのです。

その瞬間、稲妻のように彼の耳に響いたのが「すべて労する者、重荷を負う者、我に来たれ、我汝(なんじ)らを休ません」という路傍伝道者が語る聖句でした。

彼はとっさに「疲れたる者、重荷を負う者とは誰か、自分ではないか」と思い、この心の重荷が軽くなるなら、たとえ邪教であろうと外道であろうと何でも構わない。そうした藁(わら)をもすがる思いで「先生、僕を救ってください。背負い切れない重荷で押しつぶされそうです」と救世軍士官の前にひざまずいたのです。彼が16歳の時のことでした。そして士官は率直に、イエスの十字架の福音を説いたのです。彼はイエスを受け入れます。

――僧侶の父親はたまったものじゃない。

そうです。彼の「ヤソ転向」は東本願寺宗団の大問題となるのです。宗団側は結局、彼に「下げ渡し」を言い渡しました。すなわち「僧籍剥奪、寺門追放」という極刑でした。

生きながらの地獄を味わったのは、僧侶の父親でした。

それで父親は、改宗させるべく、彼を武芸道場の神武館に預けたのです。木刀で叩かれるような厳しい稽古で、音を上げるとの読みがありましたが、彼はなかなか音を上げません。

結局、父親が道場で彼を竹刀で打ちのめします。床が血に染まって真っ赤になっても彼は、キリスト者を止(や)めるとは言いませんでした。また、蔵に閉じ込められたこともありました。金沢の冬は極寒です。そこで食事も与えられず、寒さに震えて数日を過ごしたのです。

それでも信仰を放棄しない姿を見て、親も諦めるざるを得ず、彼は献身し、伝道者になっていくのです。

【メモ】 升﨑さんは絵も描き、復刻版の本の最後に10幅ほど掲載されている。学生時代の越智氏の下宿先が、升崎さんが7回目の自殺をしようとした金石海岸にあったというだけでなく、美術に造詣の深い越智氏は升埼さんの絵心にも惹かれるものがあった。

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