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木版印刷による出版文化栄える 江戸文化を育んだ吉原 市谷亀岡八幡宮宮司  梶 謙治氏に聞く【持論時論】

かじ・けんじ 1965年、東京都生まれで、先祖は諏訪大社の社家。法政大学文学部日本文学科卒業後、國學院大学文学部神道専攻科を修了し神職に。27歳で父の後を継ぎ、室町時代に太田道灌(どうかん)が江戸城の守護神として鶴岡八幡宮の分霊を祀(まつ)った市谷亀岡八幡宮の宮司となる。氏子による雅楽の継承やユニークなお守り、祈祷(きとう)などにも積極的に取り組んでいる。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。
かじ・けんじ 1965年、東京都生まれで、先祖は諏訪大社の社家。法政大学文学部日本文学科卒業後、國學院大学文学部神道専攻科を修了し神職に。27歳で父の後を継ぎ、室町時代に太田道灌(どうかん)が江戸城の守護神として鶴岡八幡宮の分霊を祀(まつ)った市谷亀岡八幡宮の宮司となる。氏子による雅楽の継承やユニークなお守り、祈祷(きとう)などにも積極的に取り組んでいる。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。
来年の大河ドラマ「べらぼう」の主人公は、江戸時代の出版文化を担った蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。しがない貸本屋から「江戸のメディア王」と呼ばれるまでになった男の生涯と、それを生んだ江戸に賑(にぎ)わいが描かれる。江戸城の西の守り、市谷亀岡(いちがやかめがおか)八幡宮の梶謙治宮司に江戸の出版文化について伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

――平和になった江戸時代に出版文化が栄えます。

『源氏物語』も木版印刷によって大量に普及し、一般人も読めるようになります。『源氏物語』が広く知られるようになったのも江戸時代からで、特に本居宣長が評価したのが大きかった。寛永年間(1624~44年)以降、木版本が中心となり、商業出版が盛んになります。

――同時代のヨーロッパではグーテンベルク以来、活版印刷が普及しますが、日本で広まらなかったのは。

ヨーロッパのアルファベットに比べ、日本語の文字数が桁違いに多かったからです。活版印刷は初期の日蘭辞典など一部に限られていました。

――参勤交代が制度化されたのも大きかったですね。

18世紀の江戸の人口の4分の1、約25万人は参勤交代で地方出身者だったため、地方の言語や文化、風俗が江戸に流入し、融合します。単身赴任の教養豊かな武士たちの文化的需要を満たすのが一因で、江戸文化が栄えるようになったのです。

――出版文化が吉原で生まれたのは。

江戸時代の出版社には「ものの本屋」と「絵草子屋」とがあり、前者は漢籍や詩歌を、後者は浮世絵や絵本、戯作を刊行していました。吉原を題材にしたのは後者で、活躍したのが吉原で生まれた蔦屋重三郎です。

重三郎は寛延3(1750)年に吉原で生まれ、安永2(1773)年に貸本・小売り本屋の耕書堂を開き、鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)が刊行した「吉原細見(さいけん)」の販売を始めます。鱗形屋は当時、既に100年以上続く老舗の絵草子屋で、「細見」とはイラストと地図から成るガイドブックです。吉原で遊ぶには必須の本だったためよく売れました。吉原細見は毎年改訂され、刊行には株が必要で、資格のない重三郎は小売りから始めたわけです。翌年、遊女の評判記『一目千本』を、著名な浮世絵師・北尾重政の絵で初めての蔦屋本として出し、出版社の名乗りを上げました。

――吉原が成立したのは。

吉原は元和4(1618)年 に、京都の島原、大坂の新町と並ぶ徳川幕府公認の遊郭として、当時は郊外だった今の日本橋近くで始まり、焼失を機に明暦3(1657)年に、田んぼに囲まれた浅草へと移されました。前者が元吉原、後者が新吉原です。吉原の郭中には遊女を抱える妓楼(ぎろう)(遊女屋)、その見世に客を紹介する茶屋(引手茶屋)、高級な客が遊女を招いて遊ぶ揚屋(あげや)がありました。

――吉原で遊ぶには教養が必要だったのですね。

大きな見世の楼主は俳諧や狂歌、声曲、狂言など江戸文化の守護者で、歌舞伎役者のパトロンでもあり、遊女たちにも三味線などの芸事だけでなく和歌や書などの教育を施しています。特に上級武士や裕福な商人を相手にする花魁(おいらん)には、高度な教養が必須でした。単なる性的な関係だけでは男女の仲が深まらないのは今も同じで、とりわけ花魁には大金を払ってでも親しくなりたいほどの芸と教養が求められたのです。遊女屋は文芸人の文化サロンでもあったのです。

江戸琳派(りんぱ)の祖とされる絵師の酒井抱一(ほういつ)は、姫路城主の孫として江戸に生まれ、書画や俳諧、絵画に才能を開花させ、花街でも名を馳(は)せるようになります。歌舞伎の七代目市川団十郎を贔屓(ひいき)にし、吉原大文字屋の「香川」を身請けして、創作に勤(いそ)しみながら、遊女たちとの会話を楽しんでいました。

――洋画家・高橋由一の代表作に「花魁」があります。

稲本楼の花魁小稲(こいな)がモデルですが、明治新政府は、西洋諸外国からの遊女の人身売買についての批判などを抑えようと遊郭への規制を強めたので、吉原の文化が廃れるのを憂えた人が、花魁の姿を記録に留(とど)めてほしいと由一に依頼したのがきっかけとされています。静物画が得意だった由一は、花魁のありのままの姿を描いたため、一般的な浮世絵の美人画とは違い、表情は硬く、疲れたように虚空を睨(にら)み付けるリアルな絵に仕上がり、小稲は「わちきはこんな顔ではありんせん」と泣いて怒ったそうです(笑い)。

――女性としてはそうでしょうね。吉原の出版で知らるようになった重三郎は天明3(1783)年、日本橋に店を構え、山東京伝(さんとうきょうでん)らを使い吉原細見に続けて洒落本や黄表紙などを刊行するようになります。

洒落本は遊女らとの遊びについて書かれたもので、粋(いき)を理想とし、遊女と客の駆け引きや、野暮な客を笑い者にしています。話を楽しむためだけでなく、実用的な遊び方指南や一種のガイド本として読まれました。

黄表紙とは、知的でナンセンスな笑いと、当時の世相を踏まえた写実性が特徴で、大人向けの読み物として評判になります。葛飾北斎や喜多川歌麿らも挿絵を手掛け、言葉や絵に仕組まれた遊びの要素を読み解くのが粋な楽しみ方でした。山東京伝は、田沼意次(おきつぐ)や松平定信の政治を風刺する作品が人気になりますが、後に出版統制を招きました。

――吉原には台東区立一葉記念館があります。

樋口一葉の名作『たけくらべ』の舞台は、新吉原へ向かう現在の茶屋町通りの龍泉寺町界隈(かいわい)と遊郭吉原です。いずれ遊女になる美登利(みどり)と僧侶になる信如(しんにょ)の淡い思いと、大人へと成長していく子どもたちの様子が、季節ごとの行事を織り交ぜて描かれています。一葉は肺結核のため24歳で亡くなりますが、「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの代表作を執筆した明治27年12月から29年1月は「奇跡の14か月」と呼ばれています。

メモ 映画「ロッキー」で、失意の主人公のロッキー・バルボアが妻のエイドリアンに「がんばって」と言われ、見違えるように奮起して相手をノックアウトしたシーンが印象的だった。男性は愛する女性の一言ですごいパワーを与えられる。この関係があったから、人類は発展してきたのではないか。吉原の跡地を歩きながら、ふとそう思った。本当は妻にそういう存在であってほしいのだが…、言い返されそうなので話さない。

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