東日本大震災に際し、クウェートは500万バレルの原油(約400億円相当)を震災復興の義援金として提供した。そのうち20億円の配分を受けた岩手県の三陸鉄道では車両の新造や被災駅の再建を進め、復興に弾みがついた。今年4月、宮古市にある本社を訪ねたという、日本とクウェートの架け橋として活動しているNPO法人サラーム会会長の小林育三氏に、その間の経緯と、日本とクウェートの関係について伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――NPO法人サラームの会が発行している「季刊サラーム」の今年春季号には、「クウェートとの絆を結んだ三陸鉄道」が載っています。
4月20日にはNHKの「新プロジェクトX」で「約束の春~三陸鉄道 復旧への苦闘~」が放映され、いいタイミングでした。
2011年の東日本大震災で、岩手県の三陸海岸を縦断する北リアス線(久慈駅―宮古駅)、JR山田線(宮古駅―釜石駅)、南リアス線(釜石駅―盛(さかり)駅)は壊滅的な被害を受け全線不通となりました。当時の三陸鉄道は北リアス線と南リアス線でした。JR山田線の宮古駅―釜石駅間が三陸鉄道に移管され、三陸鉄道が盛(さかり)駅から久慈駅まで163㌔が1本に繋(つな)がったのは19年3月です。
当時の南北リアス線の復旧資金を支えたのがクウェートからの義援金でした。クウェート政府は日本政府に原油500万バレルを寄贈し、政府はその販売額を日本赤十字社を通じて被災した各県に配分しました。当時の日本の1日の原油消費量は440万バレルを上回る量で、タンカー3隻で運ばれてきました。原油輸入会社は、その代金をクウェートからの義援金として日赤に送金したのです。
岩手県には義援金として84億円が充てられ、うち約20億円が三陸鉄道に配分され、新造車両の導入や津波で流された島越(しまのこし)駅の再建、十府ケ浦(とふがうら)海岸駅の建設などに活用されました。
南北リアス線は東日本大震災発生から3年後の14年4月に全線開通し、3年間での復旧は奇跡でした。同年4月5日の釜石駅での開通式典では、アル・オタイビ駐日クウェート大使(当時)夫妻同席の下、くす玉が割られて記念列車が出発し、望月正彦三陸鉄道社長(当時)は「これからも地域の皆さんの生活の足の役割を果たし、産業復興や活性化に貢献する」とあいさつしました。
新車両に充てられた額は約13億円で、北リアス線に3両+記念車両1両、南リアス線に3両+記念車両1両として配分され、開通記念式では記念車両とお座敷車両が運行しました。クウェート記念のマークの入った新造8車両は今も現役運行しています。ヘッドマークにクウェートの国章が刻印され、車両側面には「クウェート国からのご支援に感謝します」とアラビア語、英語、日本語で記されています。
――三陸鉄道の石川義晃社長にインタビューしたのは。
サラーム会の役員と4月23、24の両日、宮古市の本社を訪ねてです。2022年に着任されたサーミー・アル・ザマーナーン駐日大使は昨年6月、宮古市の三陸鉄道を訪れ、石川義晃社長と復興の様子を視察したとのことで、石川社長からその時の記念写真を頂きました。また社長は私たちを宮古駅の車両基地に案内し、停車中のクウェート記念車両前で記念撮影してくれました。「新プロジェクトX」にも登場していた金野淳一運行本部長は、コントロールパネルの前で詳しく説明してくれ、14年の開通式では、運転した金野氏の所まで、「クエ、クエ、クエ(クウェートのこと)」の感謝の声が届いたそうです。
――三陸鉄道が不死鳥のようによみがえったのは、地元の人たちの言葉でしたね。
震災から3年で復旧し、運転再開を果たした時に、地元の人たちから「おかえりなさい」という一言が掛けられたのです。地元の人たちにとっては失われた日常が戻ってきた喜びで、復旧に携わっていた三陸鉄道の社員たちは、それまでの苦労が報われた思いだったそうです。
――日本とクウェートとの関係は。
クウェートは日本にとってサウジアラビア、アラブ首長国連邦に次ぐ第3位の石油供給国で、日本からは自動車や鉄鋼を輸出しています。またクウェートはシーレーンの起点であるペルシャ湾の最奥に位置し、安全保障面でも協力関係にあります。08年まではクウェートの基地に航空自衛隊が駐留して、イラク戦争後のイラク復興支援活動として、多国籍軍に給油や補給活動などを行い、20年からは北アラビア海域でシーレーン防衛を実施しています。
――1990年のイラクによるクウェート侵攻とそれに続く湾岸戦争は、自衛隊の海外派遣の大きな転機となりました。
日本政府は130億ドルの資金援助をしたのですが、人的貢献を見送ったことなどから諸外国から批判され、これが契機で自衛隊の海外派遣を可能にする国際平和協力法の議論が活発になりました。クウェートが湾岸戦争終結直後ワシントン・ポスト紙の全面を使って謝意を表した広告に日本の国旗はありませんでした。掃海艇と補給艦がペルシャ湾に派遣された後、クウェートで発行された記念切手には日本の国旗も印刷されました。
――小林さんとクウェートとの関わりは。
日本で創設した健康食品の会社の支店を96年にクウェートに開こうとしたのが始まりです。人の輪が広がってくると、両国の親善交流活動をしたくなり、98年に任意団体のサラーム会を設立し、季刊誌で情報発信するようになったのです。
――正倉院にはササン朝ペルシアのガラスもあります。
シルクロードを介した古代ペルシャと中国、日本の交流を物語る逸品です。古代史のロマンも含め、中東の親日国クウェートとの友好親善に貢献していきたいと思っています。
【メモ】1975年の1年弱、盛岡で暮らし、久慈から宮古、釜石、陸前高田、大船渡など三陸海岸の町を訪ねたことがある。秋に盛岡から車で宮古に行った時は、カラマツの紅葉に目を見張り、浄土ケ浜の景色に見とれた。震災後、石巻で催された慰霊祭を取材した折、三陸海岸を北から南まで清めの神事をしたという青年神職に胸を打たれた。それでも海を恨む思いはない、という人々の言葉にも。思い出すと岩手なまりが懐かしい。