岡山の宗教史で興味深いのは、浄土宗の法然と臨済宗の栄西という鎌倉仏教の両極のような宗祖を生んだこと。2人とも比叡山で学び、法華経や天台密教の膨大な教えの中から、それぞれの求める道を探求した。古代の宗教史を踏まえ中世の吉備(きび)はどんな宗教を発展させたのか、岡山の宗教史に詳しい山田良三氏に伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

――平安仏教では護国から個人の救済が重視されるようになり、浄土信仰が民衆に浸透します。『往生要集』を著した天台僧の源信は、瞑想(めいそう)により仏を見る「観想念仏」を重視しながら「称名念仏」も紹介し、浄土教の発展につながりました。
法然と栄西は同時代の人で、両者と深い関わりのあったのが、源平の争乱で焼失した東大寺を勧進で再建した重源(ちょうげん)です。
1186年に法然が天台僧らと宗論を戦わせた「大原問答」に重源は弟子十数人を伴って参加し、重源が法然の念仏を受け入れたことから「重源は法然の弟子」だと言われたこともあります。平重衡(しげひら)ら平氏軍の焼き打ちで焼失した東大寺の再建のため、後白河法皇は法然に勧進職を要請しましたが、法然はこれを辞し、重源を推薦しました。
重源と栄西は宋の五台山で出会い、以後、親交を結ぶようになります。栄西が鎌倉幕府に招かれ、幕府の後援で禅宗を広めた背景には重源の計らいがあったと思われます。重源が勧進の拠点に設けた七つの別所(東大寺分院)の一つが備中別所で、備前で重源が開発した荘園の代表が現在の岡山市北区野田の一帯の野田荘です。
乱世の平安時代末期に、修行や学習、寄付をしなくても仏の救いにあずかれるとする易しい教えを説いたのが法然で、貴族仏教を民衆の仏教へ転換させたことから「日本のルター」とも呼ばれています。
法然は1133年に美作国(みまさかのくに)久米(現・久米郡久米南町)で、押領使(警察のような官職)漆間時国(うるまときくに)、母秦氏君の子として生まれます。9歳の時に父が土地争いから殺された時、父に遺言で「仇(あだ)討ちよりも菩提(ぼだい)を弔ってほしい」と諭され、母の弟が住職の菩提寺から比叡山に登り、源空や皇円、叡空の下で修行し、「智慧(ちえ)第一の法然房」と評されるようになります。
43歳の時に専修念仏に衆生救済の道を見いだした法然は、叡山を下りて東山の吉水(現・知恩院)に住み、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える専修念仏を広めます。それは、阿弥陀仏に帰依するという意味です。法然の教えは貴族や武士にも広まり、有名なのが坂東武者の熊谷直実(くまがいなおざね)です。一の谷の合戦で若武者・平敦盛の首を取ったことの後悔から法然のもとで出家し、法然の出生地に誕生寺を開きました。
――一方、武士に広まったのは禅宗で、とりわけ栄西の臨済宗は鎌倉武士の心と知性を鍛える仏教として受け入れられます。
栄西は源信創建の倉敷市の安養寺に11歳で入り、14歳で比叡山に登り受戒。その後、備中と叡山を往還して天台宗の教学と密教を学び、形骸化した日本天台宗を立て直すべく1168年に南宋に留学します。
帰国後、平家の庇護(ひご)を得て博多湾の誓願寺にいた栄西は、源平合戦が終わった1187年に再び入宋し、天台山の万年寺で臨済禅を学び帰国しました。筑前や肥前の福慧光寺や千光寺などで布教し、宋から持ち帰った茶の種を肥前霊仙寺で栽培したのが日本茶の始まりです。
1195年には朝廷からの勅許を得て博多に日本最初の禅道場として聖福寺を建立し、『興禅護国論』で禅は既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であると説きました。その後、鎌倉に下向した栄西は幕府と北条政子の信頼を得て、頼朝1周忌の導師を務め、政子建立の寿福寺の住職に招かれます。1202年には鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護で、京都に禅・天台・真言の三宗兼学の道場として建仁寺を建立しました。
――浄土教には死後、浄土に往生する往相回向と、浄土から再び現世に還(かえ)り衆生を救う還相(げんそう)回向の二種回向があります。
浄土教で救済の主体とされる阿弥陀如来は、サンスクリット語のアミターバ、あるいはアミターユスで、漢訳では無量光仏、無量寿仏で、新約聖書の「イエスは世の光」と同じです。
江戸時代末、今の倉敷市児島で塩田王と呼ばれた野崎武左衛門の一族で国会議員になった野崎武吉の秘書・小西増太郎は、ロシア正教の宣教師に会って信徒になり、日本ハリストス正教会からロシアに渡り、キエフ神学大学で神学を、モスクワ神学大学で心理学を学びます。
帰国後、ニコライ神学校教授になった増太郎は、尾崎紅葉とトルストイの「クロイツェル・ソナタ」を共同訳し『国民之友』に連載するなど、ロシア文学の普及に貢献します。長男は野球解説者の小西得郎です。
岡山県津山市で美作聖人と呼ばれた実業家の森本慶三は、東京遊学中に内村鑑三と出会い共鳴、キリスト教理念によって地元の教育や福祉事業に貢献しました。森本が私財を投じて建てた津山基督教図書館(現・森本慶三記念館)の開館式に招かれた内村は、地元の人たちに「ルターの宗教改革に先立つこと300年、仏教の宗教改革をなした美作の聖人法然について学ぶことが大切だ」と語っています。
――戦国時代に来日したカトリックの宣教師たちは、日本にはキリスト教に似た仏教があるとバチカンに報告しています。蓮如が始めた門徒向けの「御文章」(御文)は、キリスト教が文書伝道として取り入れたとされています。
法然が究極的に求めたのは、父の遺言の「仇討ちより供養を」から、どうすれば敵(怨讐(おんしゅう))を赦(ゆる)し愛することができるかでした。最終的にたどり着いたのが、問題(敵)は外にあるのではなく自分の内にあり、自己中心的な欲望(貪欲)や敵愾心(てきがいしん)、憎悪心(瞋(しん))を克服することでした。自分を超え仏の心で生きる道を求めたのだと思います。
【メモ】法然の二種回向は、プロテスタンティズムの倫理を生んだカルビンの二重予定説に似ている。死後、救われるかどうかは神の予定で決まっていて、救われることを実証するために現世で懸命に働くというのは還相回向と同じだ。そこから「三方よし」の近江商人らが生まれた。宗教をより良い集団形成のツールと考えれば、洋の東西で世俗倫理に結実したのは当然であろう。人々の営みが宗教をそう変化させたとも言える。宗教も不変ではない。