前回は日本伝統文化コーディネーターの藍川裕さんに、日本舞踊で素踊り形式の群舞を初めて生み出した花柳徳兵衛(はなやぎとくべえ)を語ってもらった。徳兵衛にはさらに日本舞踊の発信力を高めるため取り組んだプロジェクトがあった。(聞き手=池永達夫)
日本初の舞踊学校設立
創作風土を作り上げる国際的舞踊家育成に尽力
――花柳徳兵衛さんの特筆すべき点は。
芸術家として表現するというだけでなく、そうした創作風土を作り上げようとしたことです。
天才肌の人というのはインスピレーションを受け、独創的な表現ができるものですが、徳兵衛先生はそうしたものにとどまらず、日本で初となる舞踊学校を立ち上げ、誰でも意欲と関心のある人を生徒として受け入れ後世につなぐ舞踊家育成に取り組んだのです。
――舞踊学校はいつごろ、どこに。
1962年、東京都三鷹市の三鷹台駅近くに、3年制の舞踊学校をつくりました。正式名称は徳兵衛日本舞踊学校といいます。現在、立教女学院があるそばです。徳兵衛先生はその校長に就任されました。
そうした舞踊学校を立ち上げることで、閉鎖的な日本舞踊の家元制度の壁を打破し、自由で開かれた学校の中で日本舞踊を学べるようにしたのです。
教師には評論家や学術研究者も入れ、舞踊の実技だけでなく講義も取り入れました。大学教授が舞踊演劇論を講義したり、体操や創作の講義もありました。
――徳兵衛さん自身も教壇に立ったのですか。
もちろんです。徳兵衛先生は日本舞踊の基本を教えていました。伝統的な腰の入れ方とか、歌舞伎の手法も入れて、これから日本の創作舞踊を創り上げられるよう基礎レッスンと理論の両面で舞踊家育成に力を入れました。
それで日本舞踊を世界に通用するものにしようとしたのです。
それも自力で舞踊学校をつくり上げたのですが、資金面では相当、苦しかったようです。お金が足りなくて、舞踊団を率いて日本中をどさ回りしながら公演活動を続け、最後は九州で肝硬変を患い、倒れるように亡くなりました。
――創作活動では、どこから刺激を受けたのでしょうか。
中国、インドや東南アジア、欧州など海外に行ったことで、視野が大きく広がったことは確かでしょう。
ただ、海外渡航といっても今のように飛行機が使えず、船便でした。しかも、貧乏だから3等席でした。
――個室より、他の乗客と雑魚寝する3等席の方が国籍の異なるいろいろな人と会えて世界を見て感じるには最高の席だと思います。
それもあったかもしれません。先生の視線は大衆側だから、後世の創作にも大きく寄与したことは間違いがないと思います。ただ、今だからそう言えるのであって、貨物船のようなものに乗り込んでいくのだから体力がないと持たなかっただろうと思います。
――ご夫人は。
奥さまはミス横浜だった静子さんで、徳兵衛先生を徹底的に支えた才媛でした。彼女は良家のお嬢さんだったのですが、変わっていて親に反抗して家を出て、カフェで働いていました。
そこに薬瓶を下げながら、ひょろひょろの徳兵衛先生が、師匠の徳之輔先生に連れて行かれたそうです。この時、徳兵衛先生はビールも飲めない青年でしたが、壮大な夢を語ったそうです。それで、この人に懸けてみようと決意して、大恋愛の末、一緒になったのです。
ただ最後の最後まで、貧乏のどん底のような生活でした。そのマネジメントをすべて奥さまが仕切っていました。いやなことは全部、奥さまが引き受け、頭を下げて回って資金的な尻拭いをしたのです。
着る物もなくて、上っ張りみたいな物を羽織って仕事をこなしていました。
ともかく静子さんは、全身全霊で徳兵衛先生を支えたしっかり者でした。
それで踊りでも少しでも手を抜くと見抜くのです。だから門下生たちが一番怖かったのは静子さんでした。静子さんは舞台の良しあしも、厳しく評価できたのです。ですから静子さんから何度もダメ出しされたものです。
先生が唯一、頭が上がらなかったのも静子さんでした。静子さんのことは63年、「徳妻の記」というタイトルで映画にもなりました。この映画もどこかにフィルムが残っているはずです。
この映画で徳兵衛先生役をやったのが、藤岡琢也(たくや)さんでした。顔がうり二つでした。妻役をやったのが、デビューしたばかりでニューフェイスの藤純子さんでした。現在、人間国宝の尾上菊五郎さんの奥さまです。
――藍川さんとの出会いはどういったものだったのですか。
10代半ば頃、私の友人が徳兵衛先生の内弟子に入ったのです。
それで友人は「踊りのうまい子がいるのだけど」と私のことを話してくれました。
そうしたら「ぜひ会いたい」と言って、引き抜かれる格好で徳兵衛先生の所で踊るようになりました。
――藍川さんみたいに舞踊家になった人はいるのですか。
徳兵衛先生の門弟は、一般の家庭のお弟子さんと舞踊団、それに学校の生徒と分かれていたのですが、一時期は内弟子の方たちが全部まとめて指導に当たっておりましたが解散しました。それで、他流に乗り換えたり、花柳の家元にお世話になったりと、それぞれの道に分かれていきました。
そのような中で、最後まで責任感を持ち続けてまとめていたのが、花柳衛彦(もりひこ)さんでした。今年4月、91歳で亡くなられました。林家彦六(8代目正蔵)という落語家の息子で、藤間流の踊り手でした。そこから徳兵衛先生の内弟子になり花柳の名取となった人です。流派に媚(こ)びることなく、自分の信念を貫き一本杉で生きた人です。
【メモ】旅の起源が「巡礼」であるように、踊りの起源は神への奉納を目的とした「神楽」とされる。いずれも人間や具象を超えたものに対する畏敬の念から発したものだ。現在、四国八十八カ所を巡礼するお遍路には、たくさんの外国人が参加するようになった。花柳徳兵衛が生きていれば、三鷹の舞踊学校にたくさんの外国人留学生が集っていたかもしれないとふと思った。