日本には長い歴史の中で育まれた世界に誇る文化がある。日本舞踊もその一つだが、世界に発信するパワーには欠ける。しかし、それに挑戦する人物がいた。異色の日本舞踊創作家だった花柳徳兵衛(はなやぎとくべえ)だ。徳兵衛を「生涯の恩師」として慕う日本伝統文化コーディネーターであり日本舞踊藍川流家元の藍川裕氏に、その人となりと作品を聞いた。(聞き手=池永達夫)
戦後、日本発の群舞生む
家元制度の壁打破 日本舞踊を世界的芸術へ
――体調の方はいかがですか。
年初から座骨神経痛で、昔ほど歩けなくなりました。年齢も年齢ですので、そろそろ終活期に入ったのかもしれません。私が死んだら、遺体は東京医科歯科大学に献体として送り医学の継承や発展のために役立てることになっています。
肉体の方はそれで片が付くとしても、ただ一つ心残りなのは、踊りの魂を教えていただいた花柳徳兵衛恩師のことです。
戦後の踊りの世界に一石を投じた徳兵衛先生は、多くの弟子を育成致しましたが、死去後はそれぞれの道に巣立っていき、時間と共に先生の偉大さを語り思想を伝える人がいないに等しいのです。ですから、先生のことをしっかり言い残しておきたいのです。
――藍川さんは、徳兵衛さんの門弟でした。
はい、徳兵衛先生は私の恩師です。今、日本伝統文化コーディネーターをしていられるのも、先生のおかげかもしれません。
――徳兵衛さんの何がすごいのですか。
今では舞踊界で当たり前になった華麗な扮装(ふんそう)をまとわず踊る素踊り形式の群舞を、初めて生み出し上演したのは、他ならぬ花柳徳兵衛先生です。その群舞の代表作は「壇ノ浦」になります。
日本舞踊といいますと、古典舞踊、江戸時代に生まれた歌舞伎の中の舞踊を指します。後に家元制度、流儀というものができ、お寺制度と相まってピラミッド型組織となり、各々流派ができ、一般婦女子の習い事や芸者衆の技芸として一般に普及し、街々に師匠が現れました。その狭い壁を取り払って舞踊を愛する人が、日本の舞踊家として世界に通用する芸術へと昇華させようとしたのです。
――ヒップホップも今や国際的舞踊では。
いや、そうではなく、あくまでも日本の文化、舞踊、日本舞踊の基礎を土台とした日本の舞踊、歌舞伎舞踊、民族舞踊、神話、神楽とあらゆる題材で娯楽作品を創ったり、日本の舞踊を試みたのです。
さらに後にはアジアに目を向けインドやベトナム、モンゴル、それに当時、国交のなかった中国にも出掛けて文化的刺激を受けています。そして「花柳徳兵衛舞踊団」を結成し、コマ劇場、産経ホールなどで全国公演をして回りました。日本の舞踊だけで公演したのは、いまだに類を見ない偉業です。一個人がですよ、驚きの使命感です。
――例えばどんな踊りを創ってこられたのですか。
代表作として反戦作品「慟哭(どうこく)」、社会作品「小島の春」「野の火」等、娯楽作品では「田の神のこよみ」、各地の民族舞踊集や神話・神楽「やまたのおろち」等、数多い作品です。
徳兵衛先生の最初の社会話題作品は、11年間温め続けた「慟哭」でした。友人たちの多くは戦争に駆り出され戦死しています。その友人たちを偲(しの)んだ作品です。海の底に沈んだ軍艦を舞台に、亡霊があがき始め藻になって慟哭するという展開を踊りで表現した群舞で、「藻」と「喪」が掛けてあります。NHKにアーカイブとして残っているはずです。私もその作品に出演しております。
「小島の春」というのは、戦前の1938年にハンセン病患者の救済に尽くした女性医師を描いてベストセラーになった本を基にした舞踊作品で、小島の療養所に行った思い出が私にもあります。日本初の国立ハンセン病療養所である「長島愛生園」(岡山県)で、「夫と妻が 親とその子が 生き別る 悲しき病 世に無からしめ」と短歌に込めた志の下、女医の活動を舞踊に仕立て上げました。
さらに「野の火」は百姓一揆を題材にし、笠連判と言い、丸いすげ笠に名前を書き首謀者を分からなくして権力者と戦う百姓たちの物語を作品にしました。
「田の神のこよみ」は地方の稲作の風習を民族舞踊として取り入れた、楽しくのどかな作品です。
そしてさらなる「やまたのおろち」は日本の伝承民話をそのままに取り入れたものです。また、各地の民謡「八ツ木節」や岩手県の民俗芸能「鹿踊り」「伊予万歳」「銭太鼓」等々メドレー集の踊りを楽しく見せました。
京劇仕立ての「宝蓮灯」でも、中国へ行って習い、舞台装置や小道具を持ち帰っています。その上で音楽や衣装も制作し、コマ劇場等で上演しました。現在令和になってもそんな舞踊家、舞踊団は現れていないでしょう。
ともかく欧米ものではなく、日本をベースにしたアジアの文化で芸術娯楽作品を作り上げることに、一生の情熱を注いだのが徳兵衛先生でした。
――その背景にあったのは。
わが国は先の戦争で敗れ、米国に一時、占領されました。
それで思想まで変えられてしまいました。その文化をマネするのではなく、アジアの文化はアジアの人々が手を携え、日本の文化はわが手で守るというのが徳兵衛先生の考えでした。
何よりも、いにしえの昔より、日本は文化面でも大陸の影響を受けながら、日本らしい文化を取り入れ昇華してきたという深い基本認識があったからだと思います。
【メモ】日本舞踊を家元制度の呪縛から解き放ち、世界に通用する芸術への高みを目指した花柳徳兵衛。「徳兵衛先生がいたことを世の中に知ってほしいと強く願い、そのために踊りを続けた」という藍川さんは傘寿を超えてもなお、舞台の現場に立ち続けようとしている。コロナ禍だったが一昨年、東京・荻窪のライブ会場を借りきり舞踊公演を行っている。