律令(りつりょう)制と仏教による国造りを目指した古代日本は、優秀な若者を中国に派遣し、政治、経済から文化、技術まであらゆることを学ぼうとした。律令制が概成した飛鳥・奈良時代は日本人が最も勉強した時代で、吉備(きび)出身者も活躍する。吉備真備(きびのまき)と和気清麻呂(わけのきよまろ)を軸にこの時代の岡山の宗教について郷土史家の山田良三氏に話を聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――吉備の豪族出身の吉備真備は2度、唐に渡ります。唐で名を上げた留学生は真備と阿倍仲麻呂だけで、真備は陰陽道の聖典『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』を持ち帰り、朝廷の官僚として活躍しました。
『日本書紀』に第15代応神天皇が帰省した妃吉備兄媛(えひめ)を追って行幸し、葉田葦守宮(はだのあしもりのみや)で兄媛とその兄・御友別命(みともわけのみこと)に饗応を受けたとあります。天皇の死後、御友別命が当地に葉田葦守宮を設けたのが葦守八幡宮。「葉田」は「秦」で、「葦守」は「足守」に転じ、足守の地名がある岡山市北区は古代、伽耶(かや)からの渡来人が住んでいました。
応神天皇は足守の一族を、上道(かみつみち)、下道(しもつみち)、笠臣(かさのおみ)に分けて治めさせました。上道が赤磐市の地域で、前方後円墳の両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)があります。下道が吉備真備が出た岡山県矢掛町で、真備町の近くに、真備の父・下道圀勝(しもつみちのくにかつ)が母を火葬して納骨した銅製骨蔵器が発見された圀勝寺(こくしょうじ)が、真備町には吉備公廟があります。
――『日本書紀』に第7代孝霊天皇の皇子・吉備津彦を西道に派遣、平定したと、『古事記』では、吉備津彦は弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)とともに派遣され、吉備国を平定したとあり、桃太郎伝説の元になっています。
大和王権による吉備平定の物語で、古代山城の鬼ノ城(きのじょう)もあります。しかし、地元の歴史研究者の主流は吉備の王権が大和に上ったという説です。
赤磐市にある石上布都魂神社 (いそのかみふつみたまじんじゃ)には、出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、赤磐市にある血洗いの滝で十握剣(とつかのけん)を洗い清めて同社に奉納したとの話があり、十握剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されています。
『古事記』では、神武天皇の東征で大和地方の豪族・長髄彦(ながすねひこ)が奉じる神として饒速日命(にぎはやひのみこと)が登場します。『日本書紀』によれば、神武東征に先立ち、天照大神(あまてらすおおかみ)から十種の神宝を授かり、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国の河上哮ケ峯(たけるがみね)に降臨し、その後大和国に移ったとされ、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨とは別系統の説話があります。
岡将男さんらの「吉備邪馬台国東遷説」では、出雲から吉備に来た饒速日命を始祖とする一族が大和に上り、豪族の長となったのが長髄彦です。邪馬台国は吉備にあり、倭国王として吉備にいた卑弥呼は大和=狗奴国に攻められ、魏の張政によって退位を迫られ自死し、後継者の臺與(とよ)が大和に移り、吉備の特殊器台とともに箸墓に葬られたとの説で、『日本書紀』や『古事記』の記述とも矛盾しません。
素戔嗚尊が八岐大蛇から取り出した剣は鉄製で、秦氏は鉄の技術を有し、鉄の産地の伽耶ともつながっています。6世紀半ば、吉備で砂鉄が原料のたたら製鉄が始まり、吉備から日本各地へ伝播したとされます。
――聖武朝の734年に唐から帰国した真備は玄昉(げんぼう)と一緒に、多くの典籍や日時計、楽器、音楽書など持ち帰り、出世します。
741年に東宮学士に任ぜられた真備は、皇太子・阿倍内親王の指導・教育に当たります。しかし、藤原仲麻呂が台頭すると東宮学士を止められ、玄昉は筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に同地で没しました。
749年に阿倍内親王が孝謙天皇になると真備も引き立てられますが、藤原仲麻呂が権勢を強め、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)を圧倒すると、真備は地方に左遷されます。751年に再び唐に渡った真備は、阿倍仲麻呂の尽力で府庫の見学が許されています。
帰国後、真備は中央での役職は得られず、大宰大弐(だざいのだいに)になって赴任します。764年に藤原仲麻呂の乱が起こると、参議に叙任された真備は追討軍を指揮し、鎮圧に成功します。766年には右大臣へ昇進し、養老律令の修正・追加編纂(へんさん)に携わりました。
――護国仏教としての日本仏教が概成したのが東大寺の大仏を造立した聖武天皇の時代です。しかし、仏教が権力に近づき過ぎた弊害の一つが道鏡事件で、宇佐八幡宮より称徳天皇に「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けました。この時、活躍したのが和気清麻呂です。
称徳天皇は改めて神託を得るため宇佐八幡に女官の和気広虫(ひろむし)を派遣しようとしますが、長旅に耐えられないとして弟の和気清麻呂が代わります。清麻呂は「天(あま)つ日嗣(ひつぎ)は、必ず皇緒を立てよ」という神託を持ち帰り、事態は収束されます。清麻呂は皇統断絶の危機を救ったのです。
770年に称徳天皇が亡くなると道鏡は失脚し、清麻呂は播磨・豊前(ぶぜん)の国司を経て美作・備前両国の国造(くにのみやつこ)となります。
もっとも、清麻呂の本領は、技術官僚として平城京、平安京のインフラ整備にあります。政治や宗教に深入りせず、技術で国造りに貢献したテクノクラートの原型で、その原点は父祖らの治水・利水事業にあります。
清麻呂の最大の仕事は、大阪府北部から兵庫県東南部を流れる神崎川と淀川を直結させ、難波から平安京への舟運を実現したことです。清麻呂は桓武天皇に重用され、長岡京から平安京への遷都を進言し、秦氏の協力で造営大夫として活躍します。
和気氏の祖先は第11代垂仁(すいにん)天皇の第5皇子・鐸石別命(ぬでしわけのみこと)で、仲哀天皇の忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱を鎮圧した功で藤野郡(現・和気町)の郡司に任じられました。和気町には清麻呂や広虫らを祀(まつ)る和気神社があります。
また清麻呂は桓武天皇の母・高野新笠(たかののにいがさ)の氏族をたどる「和氏譜」を作成しました。和氏は、百済の義慈王の子・禅広(ぜんこう)が日本に帰化し、持統天皇の時代に百済姓を賜ったのが始まりで、曾孫の敬福は陸奥の金を大仏の鍍金(めっき)用に献上し、和氏の姓を賜りました。広虫が夫と共に孤児の救済活動をしたのは、光明皇后の事業に倣ったのでしょう。
【メモ】記者が暮らす香川県の桃太郎伝説は、稚武彦命が家来を引き連れ海賊退治をしたという話を地元の漁師から聞いた讃岐国守の菅原道真が創作したものという。高松市鬼無(きなし)町の桃太郎神社には稚武彦命が祀られている。唐から密教を持ち帰った空海は数年間大宰府に留(とど)まり、和泉国の槇尾山寺を経て和気清麻呂が開いた京都の高雄山寺(後の神護寺)に移り、最澄やその弟子らに灌頂(かんじょう)を授けた。壮大な歴史を誇る吉備に、讃岐もお世話になっている。