――政教分離を巡る解釈はどうか。
それが3番目の問題点だ。戦前の場合、政教分離の原則は、神道は祭祀(さいし)だから宗教でないという論理を採った。これを占領軍が祭祀も宗教であると見て、日本国憲法の信教の自由というものは、国民個人個人に祭祀も宗教であるとして信教の自由を与えるという論理になっている。
そういう前提に基づいて政教分離を考えるべきだ。現憲法の89条に公の財産を私的宗教団体に貸してはならないというのがある。国家権力と宗教を分離するという意味だから、そういう文言は当然だ。
けれども、その言葉通りに実施すると、地域の神社のお祭りを天下の公道でやっているのは89条違反になる。だから公道を貸してはいけない、お神輿(みこし)を担ぐのは神社の境内の中だけでしかやってはいけない、ということになる。そうすると日本の宗教文化は壊滅する。
――文言上はそうなってしまう。
だが、占領期に占領軍は地域の神社のお祭りに対して、それを憲法違反だとは一回も言っていない。要するに宗教の祭祀に特別な位置を与えている。
戦前は祭祀だから宗教ではないとして、それ故に全ての国民に神社に参拝しろと言った。けれども戦後は、祭祀を宗教と見る自由を個人に与えている。だから神社の行事・祭礼に強制的に国民を参加させることはできない。けれども祭祀として特別な、伝統的な地域のお祭りには公共性がある。だから天下の公道を貸してよいことになる。
そのような現状から考えたときに、靖国神社が問題となる。靖国神社は戦争で亡くなった人を祀(まつ)るのだから、それは公のものだ。地域のお寺は私的団体だが、戦争で亡くなった人を祀るのは私的行為ではなくて国家的行為であるはずだ。
だから靖国神社を私的な宗教団体にしておくのは、戦争で亡くなった人たちに対して日本国民が礼を失することになる。これを私的宗教団体のままにしているのは、憲法の政教分離の解釈が未熟でいまだ完成していないということを示唆している。
――靖国神社は国家の施設にすべきだということか。
国家の施設にすることに反対する論もあるので、皇室の祭祀施設にすればいい。そこにお参りしたい人はするし、しない人はしない。それから、伊勢神宮と熱田神宮と明治神宮もあまりにも歴然と皇室と結び付いた神社だから、皇室の祭祀施設にすべきだ。私的な宗教団体にしているのはおかしい。
東大法学部の「敗戦利得者憲法学」では、天皇の祭祀は天皇の「私的行為」としている。公民教科書の検定では、天皇の「私的行為」として書くように強制される。
しかし、天皇はまさに日本国憲法で言うように、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴だ。この規定を天皇の歴史的文化的立場から解釈すれば、天皇の祭祀行為は、他の政治に関わる国事行為とともに、神聖なる象徴行為の一部として位置付けなければならない。そうでなければ天皇を国家的に象徴として位置付けた、日本国家のための、日本国家としての、解釈にはならない。
現在の憲法解釈では、内閣法制局にあっても天皇の祭祀行為の解釈が空白になっている。とすれば憲法改正に向けては、改正以前に、この空白部分の解釈を明確にしておかなければならない。つまり天皇の祭祀行為は神聖なる象徴行為の一部であるという解釈の明示化だ。
――現行憲法の改正前に解釈を正すことが必要だということか。
これまで語った三つの点で考えてみても、今の憲法は国家に合った正しい解釈をしているとは到底言えない。それを厳しく反省することは、憲法改正と並行して行うべきだ。憲法改正をする前にそれをしろと言うと、また憲法改正が遅れるのでそういう言い方はしないが、憲法改正に向けてと同時に「われわれはこの憲法を正しく解釈してきたのか」という厳しい反省が必要だ。
そういう観点で見ると、安倍晋三の下で自民党が決めた4項目の改正案には重大な問題点がある。公明党に遠慮して、現行9条の条項とその解釈は1ミリも変えないで「自衛隊」を明記するとした。あれは完全な間違いだ。今でも解釈が矛盾しているのに、解釈としての説明がさらにややこしく、さらに矛盾したものになる。
(敬称略)
(聞き手=武田滋樹、亀井玲那)