一対一で寄り添う 慈悲と智恵で苦悩打開へ
聖照寺住職の東(ひがし)和空(わこう)師は、不特定多数に向けたラジオ宣教を回顧し、改めて悩む人の心に一対一で寄り添う菩薩(ぼさつ)道の原点に引き戻されたと語った。(聞き手=池永達夫)
――国際情勢は混迷を深め、社会の分断も進む中、宗教は何ができるのか。
大前提として、宗教は社会に対し何もできないと思う。
宗教家が社会に対し、ああしましょう、こうしましょうと言っても通用しない。
ちょっと前まで、地元のRCCラジオで約12年間、ラジオの番組を持ってやっていた。20万人ぐらいの視聴者がいたが、つけっぱなしの場合もあるので聞いているかどうかは別だ。
こちらとしては、あれやこれや分かりやすいようにかみ砕き、趣向を凝らして伝えるのだけれど、実際の影響力というのはほとんどなかったように感じる。
――謙遜では。人の心に染み入った言葉は残ると思う。
当初、電波を使って仏教というのはこんなものだよと、みんなに伝えられるのではと思っていた。だが、途中で宗教としての影響力がないことに気が付いた。
それよりか、本当に困ったとき、一対一で対座し「分かった。一緒に悩もうじゃないか」と寄り添う方が力がある。だから今は、そのようにやっている。
天台宗比叡山延暦寺で得度して受戒し菩薩道に入る決心をした時、これを寝ても起きてもやり抜くと誓った。12年間のラジオを終えた後、そこにまた戻ったような気がした。
われわれは学校の先生じゃなく、どちらかというと医者みたいなもので、病気になって困った人を救済したり、あるいは病気のままでも心の元気を取り戻し死んでいくようにしたりする。これこそが菩薩だと、原点に引き戻された実感があった。
菩薩の道を行くお坊さんというのは、慈悲と智恵(ちえ)を使って人々の悩みにはせ参じていく。これを言っているのが宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の世界だ。
「東に病気の子供あれば、行って看病してやり。西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い。(中略)寒さの夏はオロオロ歩き、皆にデクノボーと呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、そういう者に私はなりたい」
この詩には、他者と関わりながら生きるのが菩薩であり、たとえ人に馬鹿にされ、なじられようとも、世俗に同調せず濁った世に迎合せず前進し続けるのが菩薩の使命だという趣旨の教えが込められている。
この法華経の他者救済思想に、賢治は深く共鳴した。
特筆すべきは、賢治が生涯にわたって体現し見倣おうとした常不軽(じょうふきょ)菩薩の姿だ。
法華経20章に、この常不軽菩薩を説明している章がある。
常不軽菩薩には、読んで字のごとく「常に人を軽んじない」という意味がある。
常不軽菩薩は、町に出ては行きかう人々に常に合掌して礼拝した。なぜならあなた方こそは皆、菩薩行を積み、将来きっと仏になる方々だからというわけだ。
このためみんなからは煙たがられ、そしられて石を投げ付けられたり、たくさんの迫害を受けている。それでもこの常不軽菩薩は、決してこの合掌礼拝をやめようとはしなかった。
賢治が目指したのは、まさにこの常不軽菩薩の精神であり、生き方だったように思う。本当に素朴な詩だけれど、人の心を突き刺すように書いてある。
賢治はこの詩を書いたメモの下に、本尊を意味する浄行(じょうぎょう)菩薩と記している。私は僧侶とは職業ではなく、仏法僧の法の実践者としての生き方だと思っている。
――和尚は滝行をしている。冷たい水に打たれて耐えるという荒行ではなく、そこで瞑想(めいそう)している。その極意というのは。
滝行は修験道も神道もやるが、それぞれ微妙に目的が違う。仏教というのは我慢を嫌う。我慢というのは、文字通り我の慢心だからだ。七つの慢心のうち、一番やってはいけないのが我慢だ。
我慢というのも3日ぐらいなら、できそうだ。それが一生我慢せよというと、それは我慢じゃなくなる。我慢というのは、先に解放される自分が約束されている。これだけ我慢すれば、手に入るものがあったりする。それでは、飛んで火に入る夏の虫ではないが、待ち構えている煩悩(欲望)に支配されることになる。
この教えに近いものがあって外の環境がどう変わろうと、冷たかろうが暑かろうが関係なく受け入れる心頭滅却の心境に一瞬でも一時でもいられるということだ。それこそが外に影響されない瞑想そのものだ。
水は冷たいのだから最初は嫌だが、でもこんなものだからとそれと闘わない。それと闘うと、あと何秒かで出ようかということになる。負けるか勝つか自分にジャッジを下すということは、可能性を潰(つぶ)していくことになる。そうではなく、ただ外の大自然のありようを受け入れる。無論、限界はあるものの結局、自分と闘わなくなると、いろんな可能性が広がってくる。まず好き嫌いがなくなる。好き嫌いの世界は、自分の可能性を狭めていく。
自分は好きなように自由にやっているつもりだけれど、仏様からみたら実はいっぱいある可能性を自分で閉じてしまっていることになる。それより何で道を広げようとしないのか。
嫌いなものを好きになる必要はない。でも常にニュートラルに、先にジャッジを下すようなことをせず、一度、全部受け入れてみることが大事だ。そのうち、偏見や先入観や固定概念がなくなってくる。そうすると、自己中心的になり過ぎず他者や社会に対する責任を忘れないようになる。それで異なる宗教的信念や価値観を持つ人々を尊重することができる。自分と闘わないで平和な心でいることが涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)でいることと信じる。
【メモ】カンボジアには世界中からボランティア団体が、いっぱいやって来ている。そうした非政府組織(NGO)を取材した折、資金力がありながら活動が不発に終わっている所と、資金力はそれほどでなくてもうまく機能しているところとにはっきり分かれていることに気付いた。機能しているところは、現地の寺とジョイントしているケースが目立った。寺の僧侶は早朝、はだしで町の辻や村を回り、どこそこの夫が病に倒れて困窮しているとか手に取るように理解している。それこそ村や町という共同体の社会的診療医のようなものだ。歩いて得たそうした情報の蓄積がある寺とジョイントすれば、資金は無駄遣いされることなく必要なところに必要なだけ使われることになる。