【持論時論】筆跡雄渾な幕末の放浪歌人 子規が絶賛した万葉歌人・平賀元義 生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く

言葉飾らず率直表現 近代性含んだ雄健典雅な歌

古来、日本人は心情を歌に託して表現してきた。最古の歌集『万葉集』には喜怒哀楽から死生観、自然観まで率直に歌われている。その万葉集が見直されたのが国学が興隆した幕末で、日本人の原点回帰の現れと言えよう。明治になり、俳句を革新した正岡子規が最高の万葉歌人と絶賛したのが岡山生まれの平賀元義(もとよし)(1800~66年)で、賀茂(かもの)真淵(まぶち)に私淑し、神社史研究に打ち込みながら、余技の万葉調和歌で世に知られた。卒論で平賀を取り上げた生田神社名誉宮司の加藤隆久氏に元義の生涯と歌を聞く。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

かとう たかひさ 昭和9年岡山県生まれ。甲南大学文学部卒業、國學院大學大学院文学研究科専攻修士課程を修了し、生田神社の神職に。神戸女子大学教授、同社宮司を経て現在は名誉宮司。神社本庁長老。文学博士。神戸女子大学名誉教授。兵庫県芸術文化協会評議員、神戸芸術文化会議議長、神戸史談会会長、世界宗教者平和会議日本委員会顧問などを兼務。著書は『神道津和野教学の研究』『神戸・生田の杜から日本を考える』他多数。

――平賀元義に興味を持たれたのは。

甲南大学4回生の時、父の勧めで卒業論文で取り上げたのが、私の誕生地岡山の国学者で、正岡子規に「万葉集以来唯一の歌人」と絶賛された幕末の放浪歌人・平賀元義です。父が収集した短冊の中で、雄渾(ゆうこん)な筆遣いに驚かされたのが元義の書でした。「字は体を表す」と言われますが、彼の揮筆は非常に奇異で、その性格をほうふつとさせます。

元義は江戸時代後期、岡山藩士の嫡子として生まれますが、家を継がず脱藩し、山陽山陰を彷徨(ほうこう)します。賀茂真淵を尊敬し、独学で神典・古学を学び、吉備の古社を調査しました。上代に憧れ、万葉調の歌を詠み、神職の子弟を教育します。性格は豪放磊落(らいらく)で、酒と女を愛し、奇矯に富み、余技としながら700首の万葉調の和歌を残し、没後、それが評価されたのです。

元義は60すぎに脱藩を許され、妻と別れ岡山に戻ります。学問が評価され、黒住教行司所の顧問になり、禄(ろく)を与えられましたが、その直後、脳卒中のため急死しました。

その後、元義の業績は忘れられていましたが、明治に入って中学教諭の羽生永明が元義の短冊を蒐集(しゅうしゅう)し、研究を始めました。羽生が「山陽新報」(現「山陽新聞」)に連載した評伝「戀の平賀元義」に注目した正岡子規が、新聞『日本』に連載していた「墨汁一滴」で、元義を万葉歌人として称賛し、世に知られるようになります。

――恋の歌が多いのですか。

遊里を詠ったのが「万成坂岩根さくみてなづみ来しこの風流に宿かせ吾妹(やぎも)」です。柿本人麻呂の元歌(万葉集巻二210)から、「岩根さくみてなづみ来し」(険しい道をかき分けて来た)を取り入れた歌で、艶聞を隠さず、大らかに詠っています。

元義は幼少時から学問と武芸に優れ、4歳で小倉百人一首を暗唱したり、7歳の時には燐家に来た祭文読みの「金毘羅利生記」を聞いて、平仮名でその概要を記したそうです。後年には万葉集の歌をほとんど覚え、それを取り入れて自分の歌を詠むなど、驚くべき記憶力と研究心がうかがえます。

――古学に引かれたのは。

古学とは江戸中期に興った、文献学による古事記・日本書紀・万葉集などの研究で、儒教や仏教が渡来する前の日本固有の文化を究明する学問です。後に国学と呼ばれ、契沖(けいちゅう)に始まり荷田(かだの)春満(あずままろ)や賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)らによって確立され、幕末・維新に向かう思想的潮流を形成していきます。元義は古学に通じていた従祖父の影響を受け、14歳からは備前の神官による神典の講読会に出席し、黒住教の講話も聞き、古学に傾倒したと思われます。

――家庭的には。

19歳で岡山藩士の娘を娶(めと)りますが、元義の奇矯な性格の故か翌年には離縁し、遊里通いを始めます。さらに病身を理由に、代々世話になった主家から退身し、嫡子を弟に譲り父の厄介人になります。「厄介」とは相続権のない男子のことで、江戸時代には一種の身分としてありました。24歳の元義が詠んだ歌が「ほととぎす神の御門に言出して鳴のよろしも神の御門に」で万葉調です。

33歳で脱藩し、「大穴牟(おおなむ)遅神(ちのかみ)の命は袋負ひ淤祁命(おけのみこと)は牛飼ひましき」と詠み、放浪生活を始めました。腐敗堕落した武士の世界と縁を切り、自由な詩の世界に没入するのを決心したものと思われます。以後、元義は備中各地を放浪しながら、古学を研究し、歌仙歌集を抄写しながら作歌に耽(ふけ)りました。

この間、門人に国学と和歌を教えて生計の道を立てますが、生活には窮していました。さらに父譲りの脳卒中を患い、「きはまりて貧しき我も立ちかへり富足り行かむ春ぞ来向ふ」と心境を詠んでいます。

19歳で妻を離縁してから30年間独身でしたが、49歳で備前磐梨郡の石淵鴨神社神官の三女を娶り、その家に同棲(どうせい)します。以後、元義は身を慎み、「吾妹子がかきひく琴の殊更に音あらたなる春にもあるかも」と楽しい家庭づくりに努めます。

文久3年(1863)に水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の九子・九郎麿(後の茂政)が岡山藩主を継ぐと帰藩が許され、元義は「放たれし野邊(のぶ)のくだかけ岡山の大城戀しく朝よひに啼(な)く」と喜びを詠っています。

元義にようやく人生の春が訪れたのですが、同年12月28日、門人宅に赴く途上、脳卒中を発症して溝に転落し、そのまま凍死したとされます。66歳で波瀾(はらん)に富んだ生涯を閉じた元義は、門人らにより大多羅村の中山家の墓地に葬られました。

――万葉調とは。

古今調や新古今調に対して、実感を直截(ちょくせつ)に表現し、素朴・雄渾で格調高いのが特徴です。真淵は古今調の「たおやめぶり」に対し「ますらおぶり」と称しました。元義が求めたのは「神皇の道」で、「天照らす皇大神の天降らして今もまします五十鈴(いすず)の大宮」などがあります。

元義の歌の特色の第一は単純性で、言葉を飾らず、素直に表現することで、雄健典雅な歌になっています。純真素朴な精神と楽観主義で生きた元義の歌は明るく、相聞歌も「三芳野の芳野の山に花見つゝ妹と遊ばむ春は来にけり」など気持ちを率直に詠み、近代性があります。それ故、俳句の革新を唱えた子規に高く評価されたのでしょう。


【メモ】「歴史を見てきたように語るのが神職」という言葉通りの加藤名誉宮司。インタビューの後、神戸牛を頂きながら歓談するのが記者の楽しみ。薬師寺の高田好胤(こういん)管主(当時)に、結婚披露宴で「吉祥天のような嫁さん」と言われた夫人の昌子さんは関西学院大学美学科卒業の書家。近著の『書は日本のうた』(アートヴィレッジ)には、香川県の金毘羅宮にある歩道橋「えがおみらいばし」の銘板を揮毫(きごう)した写真が、夫妻の笑顔と共に載っている。

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