船団保有し外国とも交易 空海を生んだ佐伯氏の仕事  善通寺市立郷土館館長 大河内義雅氏に聞く 

 経済力の柱は塩 空海の留学費を捻出

今年が生誕1250年の弘法大師空海。生誕地の香川県善通寺市では、古代からの佐伯氏(さえきうじ)の実像が発掘調査などで明らかになりつつある。紀元前500年に釈迦がインドで興した仏教から、紀元前後に生まれた大乗仏教の最終ランナーである密教を中国で学び、真言密教として完成させた空海の思想の原点を大河内義雅・善通寺市立郷土館館長に聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

おうこうち・よしのり 昭和14年、善通寺市生まれ。技能者養成所卒業後、農業をしながら造船の川崎重工業に勤務。青年会活動を経て善通寺市議会議員を4期務め、近年は四国新聞文化教室講師になり、普賢の会を主宰して歴史を学び、街歩きの「いなおき会」を始めている。地元の中讃テレビで歴史紹介の番組に出演するほかDVDを52本制作しており図書館で鑑賞できる。香川県文化財保護協会副会長、善通寺市文化協会会長、善通寺市立郷土館館長。

――空海生誕1250年記念事業として進められてきた総本山善通寺に伝わる薬師如来像の焼け残った顔の復元が完了し、今春から公開されています。

善通寺は永禄元(1558)年の大火で諸堂を焼失し、大師の作と伝わる塑像薬師如来像の頭部が焼けただれた状態で残りました。それを、仏像専門家らが先端技術を駆使して6年がかりで復元させたのです。その結果、別製の螺髪(らはつ)を貼り付けた如来型の像で、制作技法や顔つき、空海自作の他の像との比較などから、774年生まれの空海よりも古い時代に作られた可能性があることも判明しました。おそらく仏教が興隆した白鳳時代の像と思われます。

――その頃から善通寺があったのですね。

空海の生まれた場所とされる善通寺の名前は、空海の父・佐伯直(さえきのあたい)田公(たぎみ)の別名である善通(よしみち)にちなんだものです。善通寺はもともと佐伯氏の氏寺で、空海の生前からあったと考えられます。

善通寺の前の寺と同じ時代の仲村廃寺が近くにあり、そこから白鳳時代の瓦が出土しています。同寺が地震で倒壊したので、善通寺前寺を建立してその本尊を移したのではないか。今の善通寺は平安初頭の807年に、唐から帰国した空海が父を開基に創建しました。

――佐伯氏とは。

佐伯氏は東北の蝦夷征伐や朝鮮の百済救援などで歴史に名を残す豪族の子孫です。『日本書紀』では、佐伯部(さえきべ)はもともと東国人の捕虜で、景行天皇の命により播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に送られ、これらを統率したのが佐伯直と記されています。空海の父・佐伯直田公は多度郡少領、多度郡を治める領主のような人で、一族は仏教を信仰し、氏寺も建てています。

――空海の母は阿刀氏(あとうじ)ですね。

阿刀氏は物部氏から分かれた一族だといわれ、河内国を本拠地に一族は摂津国、和泉国に住んでいて、平安京遷都で京に移っています。母方の伯父に伊予親王の教育係を務めた学者の阿刀大足(あとのおおたり)がいます。大足は、彼を頼り平城京に上京してきた空海が大学寮に入るまで、論語・孝経・史伝・文章などを教え、延暦23(804)年の第18次遣唐使の学問僧としての入唐にも決定的な役割を果たしました。

――善通寺市の市街地を見渡す有岡古墳群は佐伯氏の墓とされています。

仏教渡来前の古墳時代の遺跡で、当時の豪族が死者を祀(まつ)り、権威を誇示するために造ったものです。仏教が広まると、その役割が氏寺に変わっていきます。有岡古墳群は6基の古墳から成り、3世紀後半の野田院古墳から6世紀前半の王墓山古墳までが前方後円墳で、7世紀初頭の宮が尾古墳が円墳です。墳丘表面から円筒埴輪(はにわ)・形象埴輪が検出され、後円部には横穴式石室があり、石室内には遺体を納めた石屋形が構築されています。石屋形は九州とりわけ熊本地方ではよく見られますが、瀬戸内・四国地方では類例が少ないので、佐伯氏は九州・熊本と関係があったものと思われます。

王墓山古墳は継体天皇の時代のもので、横穴式石室を有する前方後円墳としては香川県内で初めて確認され、石屋形の使用は四国地方で初めて確認されたものです。石屋形は熊本の古墳の風習で、佐伯氏と熊本・九州とのつながりがうかがえます。加えて金銅製冠帽・金銅張馬具などの豪華な副葬品から、朝鮮半島との関わりや大和王権と強いつながりが想定されます。近年、王墓山古墳は佐伯氏との深い関係が確認されています。

宮が尾古墳の壁面には線刻画が描かれていて、装飾古墳は全国的には稀(まれ)で熊本に多く、四国では香川県でしか確認されていません。羨道(せんどう)(玄室に入る通路)には2体の武人像が、玄室(棺(ひつぎ)を納める部屋)の奥の壁には人物群、馬に乗る人物、船団などが克明に線刻されています。この人物群は古代の殯(もがり)の様子を描いたものと考えられます。注目すべきは船団の絵で、塩を運ぶ船など佐伯氏は船団を保有し、玄界灘を渡って中国や朝鮮とも交易していたと思います。

――佐伯氏の経済力を支えていたのは。

何より塩です。瀬戸内では約2100年前から塩づくりが始まっています。当時は土器に海水を入れて煮詰める土器製塩で、古墳時代に発展し、やがて大型土器を使って大量の塩が生産されるようになります。

佐伯氏は塩を通して大和王権と深い関係にあったと思われます。奈良県明日香村の石神(いしがみ)遺跡から、讃岐国多度郡の佐伯部足奈(たりな)が塩を納めた木簡が出土しています。佐伯氏は塩を扱っていたので空海の留学費を出す経済力があったのです。

坂出市の白峯陵(しらみねのみささぎ)(崇徳天皇陵)近くにある国宝の神谷(かんだに)神社が今年、落雷で屋根が焼けました。讃岐で一番古い社殿で、社伝には弘仁3(812)年に阿刀大足が社殿を造営し、相殿に春日四神を勧進したとあります。

――佐伯氏は空海を官僚にすべく大学寮に入れますが、空海は官僚の学問に満足せず、仏教を目指します。

幼い頃から仏教的な雰囲気の中で育ち、小さなお地蔵さんを作って遊んでいたそうですから、自然にそうなったのでは。

空海という名前も海に生きる佐伯氏を思わせます。空海が乗る遣唐使船は嵐で航路を外れ、福州(福建省)の赤岸鎮に漂着しますが、そこから空海は星を見て方位を探っています。善通寺と長安、高野山がほぼ同じ北緯34度13分にあるのも、星を読めたからです。


【メモ】最澄のように朝廷の支援がない空海の留学費を誰が出したか、は謎の一つ。水銀を取る山師が、最新の精錬技術を求めて出したとの説もあるが、佐伯氏にそれだけの財力があったとすれば、一番説得力がある。瀬戸内海の良港である善通寺は、古くから大陸・半島から最新技術を持った集団が渡来していたはずで、当然、彼らは仏教ももたらしたであろう。「古代から新しいことを学べる」と言う大河内さんに、歴史の面白さを教えられた。

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