バラ愛好家・岩崎幸子さんの住居がある群馬県藤岡市は毎年5月にオープンガーデンを行う。オープンガーデンとは、庭主の善意で一般公開されるもの。岩崎家も藤岡ガーデニングクラブ20軒のうちの1軒に入っていて、県内県外合わせ多くのバラ愛好者を迎える。岩崎家の売りは「バラとハーブ、それに多肉植物にDIY」だ。(聞き手=池永達夫)
――花や庭園に関心を持つようになったのは、いつ頃。
そもそも母が園芸好きだった。母はヤブランの小さな輪っかを作ってくれ、こうして指輪を作るんだと教わったりした。その影響を受け、小さい時から庭とか花とか関心があった。
小学校の時には、自分の小遣いで球根や種を買って花壇を作って楽しんでいた。
生涯、忘れ難いのは看護師になるために入学した全寮制の国立熊本病院付属看護学校時代だ。階段を上ると病棟があり、下に寮と学校があるという所で、通路に一輪の花が咲いていた。崖で陽もあまり当たらないような所で、植物とすれば好条件とは決して言えない場所だ。
それでもいじけもせず、一生懸命けなげに咲いている。与えられた環境に不平不満を言わないで、自分の持てる命を輝かせ最大限の美しさを出している。
その時、私はその花が放つオーラに感銘を受け、「なんて清いのだろう」「花の精をまとった仙人」だとも思った。
当時、病院での実習などストレスで憂鬱(ゆううつ)な日々を過ごしていた。そうした私に、一輪の花が大いなる励ましを与えてくれた。
その花は、誰に似ることも混じることもなく、その花になる。依存することもなく、独自性を発揮しながら、その種の命を全うしている。当たり前のことなのだが、それが悩み多き娘時代、私の背筋をピンと伸ばしてくれることになったのだ。
――特に庭をバラ園にしようと思った理由は。
自然の成り行きでしかない。
本当は普通の花壇にしようと思っていた。たまたまバラの苗を購入して、園芸雑誌を見て、「あらバラ園もいいじゃない」というのがきっかけになり、少しずつバラを集めだし今の形になった。
――庭は完成したのか。
まだ途上にある。自分でコンセプトを作って、4分の1世紀が経過した。
――コンセプトとは。
癒やされる庭を作りたい。
――草花の癒やしのパワーは、どこから来るのだろうか。
草花というのは一途だ。尽くした分だけ、美を返してくれる。植物というのは悪意がない。そうした矛盾のない世界に生きている草花は、色も形も匂いも人を浄化するというか、癒やしの素材を全部持っている気がする。
――その花の精をバラに感じた。
実は一番、花の精を感じたのはユリだった。バラよりも、本当はユリが好き。それも白百合(しらゆり)。小学生の時、ユリの球根を買ってきて庭で育て、ユリの花が咲くとカットして生けていた。
部屋に充満するユリの香りに浸り、「なんだろうこの世界!すごい!!」と思って、花の精に取りつかれた感じになった。
――具体的に癒やされる庭というのは。
ごちゃごちゃ密集させて、何でも植えたいわけではない。隙間がないとほっとしない。花いっぱいの花壇では落ち着かず、どこを見ていいのだろうと、ドキドキする。経験則から言うと、10の緑に対し花1というのが落ち着く割合だ。
――癒やしの原則みたいなものは。
緑だと思う。緑が心を和ませる効果があるように思う。
最近、人気の出てきたナチュラリスティックガーデンは緑主体で、ちょこちょこ花を入れて、というものだ。花ばかりだと、きれい過ぎて落ち着かない。あそこに花が咲いている、かわいいねというぐらいが、ちょうどいい。そうすると落ち着いた庭になって、癒やしパワーが発揮される。
――花は美人だらけだ。
花は笑顔だ。
にこにこしている。花は笑顔で咲いている。それを見た人は大体微笑(ほほえ)む。まるで微笑み返しを花にしているようだ。赤ん坊も、微笑み返しというのがある。花が咲いたら、大体の人はニコニコになる。それに対し花は微笑み返しをしている。
だが、その花を支えてきた緑があって、きれいに映る。
菊の品評会専門家から、「菊はどこを品評すると思うか」と尋ねられたことがある。
その方は、「花が3で葉が7だ」とおっしゃっていた。葉が下まで黄色く変色せず生き生きした緑を保ち、その上にすっと菊の花が咲いているのがいい。
いくら花が見事に咲いていても、葉が生きていないと及第点は付けられないという。
花を支えているもの(茎)を評価している人がいるということに感銘を受けた覚えがある。
――もっと言えば、根っこだろう。
それはそうだ。葉の隅々まで水を上げている。
【メモ】岩崎家で感動ものは銀杏(イチョウ)の木だ。これが天を衝(つ)く100年物の老木で、庭の中央に陣取っている。幸子さんは、その下に広がる庭園の手入れに余念がない。暇を見つけては、草木の世話をし、小屋造りから通路の石敷きまで細腕一本でこなす。岩崎家のお宝は、銀杏と幸子さんの2本の大黒柱だ。