戦国武将の多くが苦労したのは宗教勢力との関係で、江戸時代は、一向一揆などの政治と宗教の戦いから、安定した政教関係の時代への移行期とも言える。さらに戦国時代は世界的には大航海時代で、交易に伴いカトリックの宣教師らが来日しキリスト教を布教、時代を動かす大きな要因となる。戦国大名と宗教との関わりを、江戸城の西の守りとして創建された市谷亀岡八幡宮の梶謙治宮司に伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――戦国大名の多くが宗教勢力と戦っています。
歴史学者の黒田俊雄が提唱した「権門体制論」によると、中世の日本は公家・武家・宗教の三つの権門が、それぞれ荘園を基盤に、対立しながら相互補完的に権力を行使していました。大きな寺社は自衛の武力を備えていたので、戦国大名はそれが敵対勢力に与(くみ)するのを防がなければなりません。信長が比叡山を焼き打ちしたのも、延暦寺が浅井・朝倉と結んだからで、10年戦争になった石山本願寺との戦いでは、毛利が本願寺を支援しました。信長は宗教勢力の武装解除を目指し、それが家康の寺社奉行制度につながります。江戸時代には政治が宗教を管理するようになり、近代的な政教分離への下地をつくりました。
――信長はキリスト教をどう見ていたのですか。
プラグマティストの信長は、まず貿易によって外貨をどう稼ぐかを考えていました。さらに南蛮人がもたらした鉄砲という最新兵器に注目し、それらにキリスト教の布教が付いて回るのであれば、ある程度は許容せざるを得ないと考えました。
――信長は宣教師が語るキリスト教の世界観、創造神という概念や地球儀が示す世界をよく理解したようです。
同時代のイギリスやフランスで王権神授説が唱えられ始めたように、一神教には王権と結び付きやすい性質があります。信長は一応、天皇を立てていましたが、最終的には王に上り詰めるという思想があったようです。
――安土城の天守を「天主」と呼び、城郭内に臨済宗の摠見(そうけん)寺を建立しています。
摠見寺の本尊は観世音菩薩で現世利益の仏です。信長が、自分の誕生日に参拝するよう命じたため、仏教は偶像崇拝だとするフロイスは「自分を神として拝ませている」と『日本史』に書いていますが、祭神が信長だったわけではありません。神は一人という一神教の教えは、信長にとって分かりやすかったのではないか。それがすべてを創造し、歴史を導き、善悪の判断基準となるというのは、信長が好む合理的な思想です。
――世界地図を見た信長は、天下布武の後は明国の制覇を考えるようになります。
中国の王朝が滅ぶ基本的な原因は腐敗で、弱体化した明末期の情報が商人などを通じて日本にも伝わっていました。
――明征服は誇大妄想ではないとの説もあります。
2度にわたる元寇(げんこう)の失敗から、日本には局地戦に強い兵士がいるという認識が中国人にはありました。陸上戦では勝てないので海上に引き揚げ、台風に見舞われたのです。
――秀吉は1587年に伴天連(バテレン)追放令を出します。
貿易は構わないが外国人宣教師は退去するよう命じたので、きっかけはキリシタン大名の大村純忠がイエズス会に長崎の領地を提供していたこと、さらに同会日本準管区長のコエリョが大砲を積んだ軍船を自慢げに見せたことで、日本が侵略されるかもしれないと恐れたのです。
当時、キリシタンになった日本人は約50万人で大名も入信したことから、一大勢力になっていました。それを宣教師が操ることに、一向一揆に手を焼いた秀吉は危機感を募らせたのです。また、キリシタンが社寺を破壊し、宣教師が日本人を奴隷として売買していたことも拍車を掛けました。
――家光時代の1638年に島原の乱が起こります。
過重な年貢負担や苛烈な処罰に飢饉(ききん)もあり、領地経営の失敗が原因で、キリシタン迫害だけではありません。
――面白いのは、島原の乱で武功を立て、乱後に天領となった天草の初代代官に就任した鈴木重成と兄の正三(しょうさん)の話です。
重成は祖父からの徳川家の家臣です。ところが、正三は関ヶ原の戦い後、出家し、曹洞宗の禅僧になります。天草に赴任した重成が直面したのは、石高が2倍に評価されて農民は収穫の大半を徴収され、人口が半減していたこと。キリシタンによって社寺が焼かれ、田畑は荒れ果てていました。幕府は西日本の各藩に農民の移住を促し、重成は正三を招いて神社や各宗派の寺を再建したのです。日本の原風景が戻り、やがて石高の半減も認められ、民の暮らしは次第に安定していきます。
――晩年の家康の最大の懸念は豊臣の反乱でした。
そのため大坂の陣で豊臣秀頼と淀殿を死に追いやります。かつて秀吉は「予は日本を平定した後は、大明国に征するつもりだ。そしてその国民がキリシタンに改宗するように命ずるであろう」と語り、フロイスらを喜ばせていました。
――キリシタンの多くが豊臣に付き、ポルトガル、スペイン、イタリアの伴天連たちが大坂城に入ったのは、オランダやイギリスの商館員が徳川に最新の大砲などの武器を供与していたからで、歴史学者の松田毅一は「(ヨーロッパの)三十年戦争に先立って、カトリックとプロテスタント両陣営対決の様相が極東の大坂でも見られた」(『キリシタンの時代を歩く』中央公論社)と述べています。最後に江戸時代の寺請制度は。
本末制度のある寺がまとめやすかったのでしょう。戦国時代には経済も発展し、寺の数が増えています。加えて日本人の信仰の核心である先祖供養には仏教が向いていました。江戸時代の仏教は「寺の宗教」で、近代に「私の宗教」が加わり、今に続いているのが日本の仏教です。
【メモ】急な石段が名物の市谷亀岡八幡宮はテレビや映画のロケでよく使われる。中世文学が専門の梶さんは、ペット同伴の初詣やペットお守りなどで神社の幅を広げ、現代における神道の在り方に一石を投じている。儀礼はあるが特定の経典がなく、教祖もいない神道は、それだけ自由で、日本人の生き方そのものを反映する側面がある。最も古い宗教が最も新しい宗教になる可能性を秘めているとも言えよう。