トップオピニオンインタビュー【持論時論】生誕100年の陳舜臣と生田神社 生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く

【持論時論】生誕100年の陳舜臣と生田神社 生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く

幼少時、遊び場だった「生田の森」

『幻想の田舎』形成に寄与 小さな森が無限大の広がり

神戸生まれの直木賞作家・陳舜臣(ちんしゅんしん)氏は来年、生誕100年を迎える。戦前、貿易商の両親が台湾から神戸に移住し、元町で生まれた陳氏は、近くの生田神社の境内が遊び場だった。親交のあった加藤隆久名誉宮司に陳氏の文章をたどりながら思い出をうかがう。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

=かとう・たかひさ 昭和9年岡山県生まれ。甲南大学文学部卒業、國學院大學大学院文学研究科専攻修士課程を修了。神戸女子大学教授、生田神社宮司を経て現在は名誉宮司。神社本庁長老。文学博士。神戸女子大学名誉教授。兵庫県芸術文化協会評議員、神戸芸術文化会議議長、神戸史談会会長、世界宗教者平和会議日本委員会顧問などを兼務。著書は『神社の史的研究』『神道津和野教学の研究』『神戸・生田の杜から日本を考える』他多数。

――1972年の日中国交正常化の翌年、神戸市は天津市と友好都市になっています。神戸生まれの陳舜臣さんは『日本人と中国人』などの著書で日本人の中国人理解に尽力されました。

今年は大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)で一緒だった司馬遼太郎さんの生誕100年で、2人は学生時代からの親友でした。司馬さんは陳さんに会うためよく神戸に来ています。陳さんの両親は日本統治下の台湾籍の中国人で、先祖は福建省の農家、お父さんが台湾で貿易商を始めました。バイリンガルの陳さんは大阪外大で印度語、ペルシャ語を専攻します。

子供の頃、生田神社で遊んだことを、「生田の森」と題して当社の社報「むすび」に寄せていますので紹介しましょう。

「こどものころ、生田さんの境内でよく遊んだ。池があったし森もあって、たのしかった。もっとも森のほうは柵で囲まれていて、なかにはいることはできなかったが、そこに森があるということだけで、けっこううれしかったのである。柵のすきまからなかをのぞくと、こども心にもなんとなくロマンチックな気分を味わうことができた。

われわれが小学生のころは、夏休みなどになると、『田舎』へ遊びに帰るこどもが多かった。私の故郷は遠い台湾だから、そうかんたんに田舎に帰るわけにはいかない。小学校在学中は、三年の春休みにいちど帰ったきりである。だから、休暇で田舎へ行く友だちが羨しくてならなかった。とくに親しくしている友人が田舎へ帰っているあいだは、さびしくてしようがない。

そんなとき、私は生田さんへ一人で行くのだ。はじめはひとりぼっちでさびしいが、そのうちだんだんと『幻想の田舎』が、生田さんのなかに組み立てられる。私はそこを自分の田舎になぞらえる。その場合、踏みこむことのできない生田の森が、重要な役をはたしたのはいうまでもない。

昭和二十年の六月五日、神戸に大空襲があった。当時、私は垂水に疎開していたが、B29が退去してしばらくしてから、神戸へ出た。親類や知人の安否を気づかってである。あの日の神戸は瓦礫の焦土となっていた。余燼(よじん)がまだくすぶって、空襲のあと特有の曇り空に、不気味な風が吹いている。いたるところに焼死体をみて、私の心は暗く沈んだ。

そして、生田神社にはいった。建物はみな焼失していた。心をいためて、そのあたりを歩いたが、ふと森のことを思い出して、かけつけた。

森のなかにも焼夷弾はおちたらしいが、どうやら致命的ではないようだった。私はじっとみつめているうちに、

『大丈夫、生田の森は息を吹きかえす!』

と思った。すると、うなだれていた心もシャンとなって、元気が湧いてきた。

たとい一握りの狭い土地に樹木が密生しているというだけでも、それが生田の森であるかぎり、貴重なのである。象徴というものは、無限大のひろがりをもつ。規模の大小は二の次である。生田神社がその小さな森を、いつまでも守ってくれることを祈念してやまない。」(昭和40年)

――空襲で焼失した社殿を再建したのがお父さんの加藤錂次郎宮司ですね。

父は滋賀県の多賀大社に始まり岡山市の吉備津彦(きびつひこ)神社、生田神社を造営したので「造営の宮司」と呼ばれました。阪神・淡路大震災で社殿が崩壊した時、私は父のことを思い出して復興への意欲が湧いたのです。

――陳さんは学生時代から推理小説が好きで、37歳での処女作『枯草の根』が江戸川乱歩賞を獲得しました。

陳さんは受賞の時の様子を「夏祭雑感」と題し「むすび」に寄せています。

「昭和三十六年八月四日の夕方、貿易商社員だった私は、帰宅の途中、生田さんに寄った。ちょうど夏祭の最中である。献燈などをみていておそくなり、くたびれた鞄をさげて家にむかったが、市電山手線あたりで、鞄のとっ手が切れてしまった。縫い目が脆くなっていたのだろう。仕方がないので鞄を小脇にかかえて北野町の坂をのぼって行くと、路地のかどに妻が待っていて、私をみると興奮したように手を振った。

東京から電話があって、江戸川乱歩賞受賞をしらせてきたということだった。

鞄のとっ手が切れたのは、もう職業をかえよという神の暗示だったかもしれない。それを機会に、私は文章で身を立てることにした。生田さんの夏祭がくると、私はいつもそのときの感激を思い出して、初心にかえるのである。」(昭和43年)

――陳さんは44歳で、辛亥革命期の中国を舞台にした小説『青玉獅子香炉(せいぎょくししこうろ)』で直木賞を受賞します。

紫禁城の宦官(かんがん)に、溥儀(ふぎ)の香炉をアメリカに売ったので模造品を造ってほしいと頼まれた李同源が、女性教師の素英と共に作品を仕上げ、戦後、アメリカの収集家の手に渡った同作を一緒に見に行く話です。

――昭和46年の評論『日本人と中国人』はベストセラーになりました。

陳さんは「実を取って名を捨てる」日本人と、「名を取って実を捨てる」中国人を対照的に論じています。

陳さんは1989年の天安門事件を機に90年に日本国籍を取得します。96年に芸術院会員となり、98年には日中文化交流の尽力により勲三等瑞宝章を授与されます。2014年、神戸市に「陳舜臣アジア文藝館」が開設された翌年、90歳で天寿を全うされました。

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