今年が生誕100年の司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』は、日清・日露戦争を「国民の戦争」とし、秋山好古・真之兄弟と正岡子規を主人公に、明治維新から近代国家として歩みだした日本と日本人の成長を描いた歴史小説である。もっとも、両大戦が「天皇の戦争」であったのも歴史的事実で、その象徴ともいえる物語が日蓮門下の一つ、法華宗真門流に伝わっている。ほとんど知られていない明治史の深層を、東京・新宿区にある真清浄寺の吉田日光(にちこう)住職に聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――法華宗真門流に伝わる「天拝の三宝尊」とは。
明治27(1894)年8月に日清戦争が始まると、明治26年に公布された戦時大本営条例により、戦時中の天皇直属の最高統帥機関として設置された大本営が宮中に移されました。その折、明治天皇は生母の一位局(いちいのつぼね)(中山慶子(よしこ)、公家の中山忠能(ただやす)の次女で孝明天皇の典侍(てんじ))の奏上により法華宗真門流の本山である京都の本隆寺に勅使(ちょくし)を遣わし、「三宝尊」を2頭立ての馬車で宮中に運ばせ、日々戦勝を祈願したのです。三宝尊とは仏・法・僧の三宝を祀(まつ)る仏像で法華宗の本尊です。本隆寺の三宝尊は木製で、「南無妙法蓮華経」と書かれた題目宝塔が中央にあり、左右に釈迦(しゃか)如来と多宝如来の二仏が配置されています。
同年9月に大本営が広島に移り、明治天皇が遷(うつ)られると「三宝尊」も同行しました。天皇が日々拝まれたことから「天拝の三宝尊」と呼ばれたのです。戦勝後、「天拝の三宝尊」は、一体は本隆寺に、一体は真清浄寺に返され、後に本山本隆寺に明治天皇から菊花の紋章が入った総金箔(きんぱく)の経机が下賜(かし)されました。
――大本営のある広島に軍服の明治天皇が大元帥として赴かれるのを見て、多くの国民が新しい日本を実感したそうです。
国難に際して国民としての振る舞いを天皇が率先して示したことが、国民の心が一つになれた最大の要因でした。近代国民国家の形成の中心は国軍の創設で、江戸時代までは武士に任せていた戦争を国民が戦うようになります。徴兵された国民を兵士として育てるには戦う意味を教えることが不可欠で、天皇との精神的なつながりが大きな力となりました。法華宗真門流はその一端を担い、明治の国づくりに貢献したのです。
――法華宗真門流とは。
日蓮聖人を祖とする宗派の一つで、室町時代の長享2(1488)年に、日真(にちしん)が京都の四条大宮に本隆寺を開いたのが始まりです。開祖日真の父は天皇に仕える権大納言・中山親通(ちかみち)で、中山家は藤原氏の流れを汲(く)む平安時代の公卿(くぎょう)・中山忠親が祖です。日真は今の兵庫県豊岡市にある妙境寺に入り、12歳で得度(とくど)し、比叡山で5年間、教学を学び、仏教の中心は法華経にあることを確信します。
その後、日真は京都の妙本寺の日具に師事しますが、法華経についての論争から45歳で妙本寺を出て本隆寺を創建します。日真は後柏原天皇に法華宗正統一門と認められ、「大和尚」の称号を賜(たまわ)るなどの庇護(ひご)を受け寺は発展しました。
日真は61歳で本隆寺住職を日鎮に譲りますが、その後も教えを広めるため、北陸や山陰地方で布教を重ね、法華経の地方普及に心血を注ぎました。その折、福井県鯖江市にあった真言宗の本山平等会寺(びょうどうえじ)法華宗真門流に改宗し、福井市にある末寺で、後に私が住職を務めた本性寺も改宗しました。
ところが、天文5(1536)年に「天文の法難」が起こり、京都にあった法華宗の21本山はすべて焼失し、本隆寺の諸堂も灰燼(かいじん)に帰したため、寺は堺に避難しました。天文の法難は法華宗の呼称で、一般的には「法華一揆」や「天文法華の乱」などと言われます。当時、京都の町衆の大半に浸透した法華宗と、それに脅威を覚えた一向宗との対立が引き金となり、比叡山天台宗の僧兵が武力で法華宗を弾圧したものです。日本史上まれな宗教戦争で、京都の街は応仁の乱以上の被害を受けました。
――明治天皇の生母は中山慶子ですね。
慶子は男子が授かることを祈るため、連日、御所と本隆寺を往復し、願を掛けたそうです。まさに女の戦いで、生まれた明治天皇は、当時の慣例で生母の実家、中山家で育てられました。
明治天皇の側室の一人、夕顔局(ゆうがおのつぼね)と呼ばれた園祥子(そのさちこ)は美人で頓智(とんち)にたけ、荘重な明治天皇とよく気が合い、柳原愛子典侍と並んで寵愛(ちょうあい)を受けたそうで、彼女が明治天皇に法華経を伝えたとされます。彼女を法華宗に導いたのは歌人としても知られる当寺12世の清水蓮成法師です。
――真清浄寺は元は京都にあったのですか。
明治2年に政府機能が京都から東京へ移ったのに伴い、関東には法華宗真門流の寺がなかったので、京都・西陣の真清浄寺を移転することになり、全宗門からの支援を受け、東京・牛込に村松男爵の土地を購入し、有栖川宮殿下を初代総代として真清浄寺を開きました。後に清水蓮成(れんじょう)法師が女官たちに和歌や華道、茶道などを教え、法華経の信仰に導き、明治天皇の生母中山慶子一位局や大正天皇の生母である柳原愛子二位局をはじめ西西子、園祥子などの女官が真清浄寺に参拝するようになります。真清浄寺には本山と同じく後柏原天皇、明正天皇、明治天皇、昭和天皇をはじめ女官たちの御尊牌が祀られています。
私の父日孝(本山本隆寺第105世貫主)は昭和48年に17代住職に招かれ、福井県武生市(現・越前市)の本山本興寺塔頭(たっちゅう)の実教院から真清浄寺に入りました。終戦後、途絶えていた皇室との関係を回復したのが父で、本隆寺開創500年に際して上記天皇の御尊牌を祀って追福大法要を奉修(ほうしゅう)しました。以来、本隆寺では毎年元旦から8日まで後柏原天皇、明正天皇、明治天皇と昭和天皇の御尊牌の前で天皇皇后両陛下の玉体安穏を祈る大祈祷(きとう)会を行い、その祈祷札を宮内庁に献上しています。
【メモ】明治の国家形成には廃仏毀釈を乗り越え、近代化した仏教が大きく関わっている。その代表が浄土真宗と日蓮宗(法華宗)で、政治イデオロギーとして親鸞主義、日蓮主義と呼ばれた。仏教学者の末木文美士国際日本文化研究センター名誉教授は「仏教の関わりを軽視したことが日本の政治思想を貧困にした」と言うほど。日蓮主義では田中智学や宮沢賢治、石原莞爾らが有名だが、「天拝の三宝尊」の話は日光師から聞くまで知らなかった。