茨城県北西部の大子(だいご)町には、山々のなだらかな斜面を利用したリンゴ畑が点在している。寒暖差のある気候が、美味しく育ててくれる大子のリンゴは、「奥久慈(おくくじ)リンゴ」と呼ばれる。茨城県で初めてリンゴの木を植えた黒田りんご園を訪ね、三代目の黒田恭正氏に聞いた。(聞き手=池永達夫)
――リンゴ作りのこだわりは。
美味しいリンゴを作ることだ。
経済原論の教科書には「商品の価値は消費者の満足度によって決まる」とある。リンゴも同じだと思う。満足度とは喜びの大きさだ。消費者は喜びが大きければ高いお金を払っても損をしたとは思わない。
消費者の満足とは、外観ばかりでなく美味しさだ。人は本当に美味しいものを食べた時、感動し喜び幸せな気持ちになる。食べる人に喜びと感動と幸せを与えられるようなそのようなリンゴ作りを目指していきたい。
――スーパーに行くと、色付いた大きなリンゴが並ぶ。
マーケットは大きなリンゴを好むが、果実は過度に肥大させず、品種固有の大きさで育て完熟させて収穫する。これが一番美味しい。
果物は、肥料で大きくすると細胞が肥大化するので味が大味になり、肉質が荒くなるため日持ちも悪くなる。そのため、化学肥料や家畜糞(ふん)などは一切使わず、木の葉や刈草を使った低窒素の自家製堆肥や木炭などの有機質肥料で育てる。そうすると甘くてコクがあるリンゴが育つ。
――美味しいリンゴ作りの決め手になるのは。
リンゴの樹(き)の生理をよく学び、リンゴの気持ちを考えた栽培をすることだ。
リンゴの樹の生理の大切さを痛感したのは31歳の時、青森県の成田行祥(なりたゆきよし)先生との出会いがあったからだ。群馬県で開催された全国わい化栽培研究大会(全国農業会議主催)の時、青森県の先生方の部屋に1人で押し掛けて行った。青森県リンゴの先達の先生方が居並ぶ中、他県の若者が臆することなくやって来たので大変気に入られ、色々と教えていただいた。
成田先生には、それから毎年剪定(せんてい)の時期に1週間くらい泊まり込みで来て、15年間ご指導いただいた。そこで学んだことは、リンゴ作りの技術の目的とは、リンゴの樹が本来持っている能力を最大限発揮できるように人間が手助けするということだった。
リンゴの樹は人間同様、顔・姿かたち・性格が皆違うといった個性を持っている。リンゴの気持ちを考えることが大切であり、リンゴの樹の生理や特性をよく理解するためには、まず成長の仕組みを知ることだ。
とりわけ幼木の管理が非常に重要であり、手抜きをしないでしっかり行い性格の良い樹を将来に向けて育てていくことが大切となる。
リンゴの品質が良く生産性の高い樹を作るためには、最初の出発が大事であり、むやみに徒長(とちょう)させない、バランスの取れた性質の良い樹を作っていくことが肝心だ。
――黒田りんご園は、奥久慈リンゴの元祖とされる。
茨城県の奥久慈地方(久慈川の上流地域)にリンゴの樹を最初に植えたのは、祖父(黒田一(はじめ)氏)だった。昭和19年、第2次世界大戦の末期に祖父の家で飼っていた農耕馬が、軍馬として動員され強制買い上げになった。祖父は、かわいがっていた馬が国に召し上げられた代金を使うに忍びず、そのお金で記念にリンゴの苗を購入して植えた。
戦後、長男の父(宏氏)がリンゴを経営の主軸として発展させた。これが奥久慈にリンゴ栽培をもたらすことになり、一時は100軒近いリンゴ農家が存在した。その後、父は農事組合法人(レジャー施設)を経営し事業に失敗して、多額の負債を抱えた。大学生の頃、帰省時に田畑は抵当に入り、農機具やめぼしい家具に、「競売物件」の印字がある白い紙が貼られていたのを覚えている。
結局、私は家から仕送りがこなくなり、さまざまなアルバイトをして生活費を稼ぎ卒業した。3年ほど東京でサラリーマンをして25歳の時、家に帰った。その時、負債が3億円ほどあった。気の遠くなるような金額だった。リンゴ畑も荒れ放題で、まともな樹がほとんどなかった。
――そのどん底から蘇(よみがえ)った。
当時、バブルの絶頂期でもあり、その土地がゴルフ場などに売れ負債の整理が進んだ。それでも銀行と農協に全額返済するのに20年かかった。31歳で父から経営を引き継いだ。初めの頃は、その年の借金を返すと生活費がほとんど残らないような状態だった。お金が無いので人を雇うこともできず、睡眠時間を削り必死で勉強し働いた。借金返済や栽培技術の習得も進み、自分の思うような経営ができるようになったのは45歳頃からだ。
周りの人たちにもずいぶん助けられた。振り返ってみて、大切なことは目標をしっかりと持ち続けること、常に感謝の気持ちを忘れないこと、どんな逆境にあっても夢と希望を失わず努力することだ。そうすれば、いつかそこに立つ日がやってくる。どんな環境にあっても、心の持ち方一つで天国にも地獄にもなる。
すべて「問題がある時が、変われるチャンス」と常に前向きに捉えることが、何より肝要だ。
【メモ】バンコク支局時代、雨が火災の原因になることを目の当たりにしたことがある。開けっ放しの窓からスコールが降り込むと、窓の下にあるコンセントから火花が散った。雨水で通電したためだったが、カーテンに燃え移れば火災になっていた。同様に、リンゴの葉や果実が散水でやけどを負うことを黒田りんご園で初めて知った。黒田氏は、散水をする時は夕方から夜と決めている。昼やると葉の上にできた水の粒がレンズの働きをして、太陽光で日焼けを負わせてしまうリスクがあるからだ。