日本に古代国家が形成された時代に設けられた讃岐(さぬき)国府は讃岐一国を統治する役所で今の県庁に当たる。国府長官の讃岐守は県知事で、平安時代には菅原道真も務めた。近年の発掘でその全容が明らかになりつつある讃岐国府は、国庁以外の建物の構造が内裏に似ていることが注目され、保元の乱に敗れ流された崇徳上皇もここで晩年を過ごした。香川県埋蔵文化センターで国府跡の発掘に携わってきた西岡達哉氏に、そこから見える大和と讃岐の関係について聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――讃岐国府は大きな規模だったそうですね。
平城京や平安京のように四角形の中に収まる構造ではなく、政庁を中心にさまざまな施設が分散し、全体としての規模がかなり大きい。注目すべきは建物の配列で、菅原道真が在勤していた当時の事務棟が、正殿を中心に脇殿が配された、中庭のあるコの字型の配列でした。それは都の内裏と同じで、事務棟に中庭を造る例は全国になく、讃岐国府の規模と内容がすごい。地方の力でできるわけはなく、都の指揮でそうなったのでしょう。
――飛鳥から奈良時代の仏教は総合的な学問でした。
律令で政治体制を整えながら、精神的なバックボーンは仏教で形成しました。讃岐国分寺跡にしても建屋が並ぶ区画以外の場所が非常に広く、一種の街があったようです。
国府だけでは歴史の断片しか分からず、国分寺・国分尼寺(にじ)を加えてもやはり断片で、それらを支える古代社会の人々の暮らしを知ることが大切です。寺が造られる前の古墳時代、その前の弥生時代からの歴史の流れを見る必要があります。
国分寺には七重の塔があったとされ、遠くからも見えるランドマークです。香川県下で現在、33の古代寺院が発見されています。東西100キロの讃岐国の、ほぼ南海道沿いに3キロごとに寺があるので、平城京に匹敵する景観で、しかも16の寺には塔があって、6キロごとに見えるというロケーションは全国で稀です。そこに丈六の仏像が鎮座しているので、一見して、讃岐は仏教文化が進んでいると思ったに違いありません。同じ風景は海路からも見え壮観だったと思います。私は愛媛県新居浜市に住んでいますが、伊予(いよ)国に入ると寺の数が激減します。讃岐国を仏教で彩ろうという朝廷の意志が感じられます。
空海が生まれた時代は、彼の周りは仏教が満ち溢(あふ)れていました。古い善通寺の礎石の一つが今の善通寺金堂の基壇に残っていますが、柱の直径が80センチもあり、法隆寺より大きい。それから考えても、讃岐は第二の都のような位置付けがされていたのではないでしょうか。
――香川県東部のさぬき市の津田古墳群から、畿内のと同じ型の三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)が発掘され、豪族から贈られたようです。さぬき市にある四国最大の前方後円墳の富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん)も朝廷と豪族との関係からできました。
そうでないと、朝廷が命令しても地方は従わないでしょう。豪族間の主従関係があったから中央の命令が通じたのであり、九州の磐井(いわい)や東北の蝦夷(えぞ)は従わないので滅ぼされたのですが、四国とりわけ讃岐の豪族は早くから従順でした。
豪族には、瀬戸内海から来る敵を朝廷軍に守ってもらえるメリットもあったでしょう。古代の吉備(きび)国(岡山県)は全国を支配するほどの勢力でした。吉備氏は早くから朝廷に服属しますが、いつ反抗するか分からず、それを見張るためにも讃岐は重要だったのではないでしょうか。
――讃岐国府が今の高松市ではなく坂出市につくられたのは。
地理的に真ん中だからと説明されますが、伊予の国府は今治市で、国の中心ではありません。私は吉備を見張るのに格好の土地だったからだと考えています。加えて、大化の改新で勢力が削(そ)がれた蘇我氏の拠点が岡山県児島にあり、そこに設けられた朝廷の屯倉(とんそう)を蘇我氏が管理していました。児島の蘇我氏を見張るにも坂出は適しています。
坂出市に古代山城の城山城(きやまのき)が築かれたのは国府を守るためとされていますが、城山の方が先に造られているので、私は吉備や児島の蘇我氏をにらむ城だったと考えています。国家転覆を謀るほどの力を持つ勢力を見張るため、大宰府の大野城に次ぐ、全国第二の規模の城をここに築いたのです。国府はその後、城山の近くに設けたのではないでしょうか。
――古代山城では屋嶋城(やしまのき)の方が有名ですが。
屋嶋城の規模は大したことありません。『日本書紀』に記述されたのは、同書を編纂(へんさん)した藤原不比等(ふじわらのふひと)の意向で、軍事的には城山城の方がはるかに重要です。
両城の築城後しばらくして、藤原氏の荘園があった讃岐国山田郡(現在の高松市東部)が奈良の弘福寺(ぐふくじ)の領地になっており、同寺は天智天皇が母斉明天皇の供養に建立した川原寺で、不比等は天智天皇の事蹟を輝かせるために、屋嶋城の記事を最優先に記載したのではないでしょうか。
――讃岐が大和朝廷に近かったわけは。
弥生時代に今の善通寺市やさぬき市辺りに、対岸の吉備に匹敵する勢力の豪族がいたのが始まりでしょう。善通寺市には佐伯氏が、さぬき市には多氏(おおし)など全国的な豪族が生まれ、それに朝廷が注目したのは、第一に吉備への対抗策でしょう。弥生から古墳時代にかけて、備讃瀬戸(びさんせと)の海域を挟む地域で人々の葛藤が起きていて、それが畿内に及ばないようにする役割が讃岐にはあったのではないでしょうか。
――さぬき市の志度湾にある志度寺の「海女の玉取」伝説を見ても、海人族の働きが大きいように思います。
藤原不比等の時代から讃岐東部は都にとっても重要な地域でした。富田茶臼山古墳ができた時点で、東讃は畿内だったのではないか。当時の瀬戸内海で、岡山側は安全に心配があり、四国側の航路が選ばれたようです。そのため讃岐国の港は朝廷の関係を強めたのでしょう。
【メモ】司馬遼太郎の『空海の風景』に、少年時代の空海は遣唐使船などが通る海を眺めながら育ったと書かれている。当時の善通寺は瀬戸内海の港町で、都の文化が溢れ、空海生誕500年前の王墓山古墳(おうはかやまこふん)からは藤ノ木古墳に匹敵する金メッキの冠も発掘されている。梅原猛の『海人と天皇』は紀伊国の海女と藤原氏との話で、さぬき市にある志度寺の「海女の玉取」伝説も不比等と海女との間に生まれた藤原房前(ふささき)の話。気が付けば、私の周りは古代史だらけだ。