日本キリシタン史の白眉の一つが、天正10(1582)年にローマへ派遣された4人の天正遣欧少年使節である。イエズス会巡察師ヴァリニャーノの発案で、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として訪欧した。少年らはバチカンで大歓迎され、これによりヨーロッパの人々に日本の存在が広く知られるようになる。4人は1590年に帰国するが、その一人、千々石(ちぢわ)ミゲル(1569~1633)は後に棄教したとされていた。唯一家庭を持ったミゲルの子孫の一人、長崎県大村市在住の中瀬昭隆さんは、最近の発掘から「ミゲルは棄教していなかった」と語る。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――最近の調査状況は。
2003年、長崎県諫早市多良見町で千々石ミゲルの墓と思われる石碑が発見されました。昔、大村藩だった所で、以前はそこから大村城が見えました。
2017年、ミゲルの子孫らでつくる発掘調査実行委員会が、ミゲルの墓からロザリオらしいガラス玉を発見し、棄教説を覆す可能性が浮上しました。元長崎歴史文化博物館研究員で実行委員会の大石一久さんによると、石碑は江戸前期、ミゲルの四男が建立したもので、裏に四男の名、表にはミゲル夫妻とみられる戒名が刻まれているそうです。
最近の調査検証では、ミゲルはキリスト教を捨てたのではなく、イエズス会を脱会したのが真相のようです。脱会の理由は、宣教師同士の争いや社寺の焼き打ちなどに嫌気が差したからで、大石さんは「ミゲルはローマで受けたキリスト教の印象とは正反対のイエズス会の行為に疑問を感じ、脱会したのでは。埋蔵品から信仰を捨てたとは言い難い」と主張しています。
ミゲルの謎の晩年やキリシタン史研究の重要な発見で、以後も発掘調査が行われています。ミゲルが生まれた千々石町は島原半島にあった町で、今は雲仙市の一部です。
ミゲルの墓石には「妙法」と刻まれ、キリシタンであるのを隠すかのようにつくられていました。現在までの発掘調査ではミゲルの妻のものしか見つかっておらず、本格的な発掘による真相解明が待たれます。
――中瀬さんがミゲルの子孫と分かったのは。
大村市にある県の忠霊塔の管理をしている上野さんから、「中瀬さんは千々石ミゲルの子孫に当たるようです」との電話がありました。上野さんは坂本龍馬や木戸孝允、私の曽祖父で大村藩最後の勘定奉行、岩永前親がグラバー邸で撮った写真を探すなど歴史に詳しい方です。
私の祖父が岩永から中瀬へ養子に来たので姓は違いますが、不思議な巡り合わせに驚きました。近年の発掘調査でミゲルの評価が好転していることは、ミゲルの血を引く者の一人としてとてもうれしく思います。
ミゲルは肥前有馬氏当主有馬晴純の三男で釜蓋(かまぶた)城主だった千々石直員(なおかず)の子として生まれ、本名は紀員(のりかず)、(表向きの)棄教後は清左衛門(せいざえもん)と名乗っています。4少年の中で結婚し、子供をもうけたのはミゲルだけで、私の曾祖父・岩永前親の数代前にミゲルの2人の孫娘の妹が嫁ぎ、姉は大村藩の家老・浅田家に嫁いでいます。
――その後のミゲルは。
ミゲルの棄教は1601年で、イエズス会から除名されます。清左衛門と名を改め、伯父の跡を継いだ従兄弟(いとこ)の大村喜前が大村藩を立てると藩士になり、伊木力(現在の諫早市多良見)に600石の領地を与えられます。
棄教を考えていた大村喜前にミゲルは「日本への布教は侵略が目的」と述べて棄教を後押しし、大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下、領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と布教を妨害したとされます。
他の原マルティノとマカオへ派遣された伊東マンショ、中浦ジュリアンが教会への忠誠を守る中、反教会に転じたミゲルは、宣教師の威信を失わせたとして、イエズス会から厳しく批判されます。キリシタン派の家臣から「大敵は喜前、その根源は清左衛門」とされ、喜前はミゲルを藩政から遠ざけました。
その後、ミゲルは島原の日野江藩に身を寄せましたが、本家筋の肥前有馬氏の親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われたため長崎へ移り住み、晩年は謎に包まれています。
1549年、日本初のキリシタン大名になった大村純忠の領民はほとんどキリスト教徒になりますが、宣教師の陰に母国による日本侵略の狙いを見た豊臣秀吉は、1587年に伴天連(バテレン)追放令を出します。
島原の乱から20年後の1657年10月、大村藩領内萱瀬の人里離れた「仏の谷」で、12~13歳の少年がミサを行っていたのが分かり、検挙されます。次いで608人が捕まり411人が斬首刑になったのが「郡(こおり)崩(くず)れ」で、獄門所前に131人の首がさらされ、復活できないよう胴体と首は別の場所へ埋められました。
大村市の私の家の近くに首塚が、そこから約1キロの所に胴塚が、獄門所への途中に、妻や子と引き離されたという「妻子別れの涙石」があります。鈴田の牢屋には10畳に20人以上が詰め込まれていました。これらの史跡は巡礼の地に指定され、数年前から韓国から大勢のキリスト教徒が来訪しています。
――1981年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が長崎を訪問されましたね。
その折、潜伏キリシタンの方々との会見が設定されていました。しかし、控室に「未信者」とのプレートが掛けられているのを見た潜伏キリシタンの村上茂さんは、「われわれは命を懸けてキリスト教を信じてきたのに、カトリックではないにしても、未信者ではない」と言って、教皇に会わずに帰ってしまいました。そのことを仲間に報告したら、「せっかくの機会だったのに」と言う人、「それでよかった」と言う人など反応はさまざまだったそうです。
【メモ】長崎県大村市森園公園(もりぞのこうえん)に天正遣欧少年使節顕彰之像がある。ヴァリニャーノが4少年を派遣したのは、ヨーロッパのキリスト教文化を見聞させ、日本をヨーロッパに紹介するため。一行は天正10年に長崎港を出て、2年半後にヨーロッパにたどり着き、ローマ教皇に掲見した。そして、8年5カ月後の天正18年、グーテンベルク印刷機や知識を携え帰国する。顕彰像は4少年の偉業を称(たた)えるため、出帆400年目の1982年に建てられた。