教育は「国家百年の大計」とされる。人材育成こそ国家の要であり、100年後の未来の日本を支える人材を養成するために長期的視点で人を育てることの大切さを説いた名言だ。その教育が揺らげば、未来の日本が危うい。「私の生涯の関心事は人間関係と人間形成、すなわち教育だ」という学習院女子大学元教授の久保田信之氏に、「教育の核心」について聞いた。
(聞き手=池永達夫)
――コロナ禍の3年間、リモート教育が行われたりした。
教育の知識の切り売りだったらリモート教育で十分だが、人というのは人間という字がそうであるように「つながりの存在」だ。
山にこもって人格の完成があるわけではない。最初は家庭の中で親兄弟との関係性の中などで育まれていく。
だからこそ、人と人との関係を大事にしていかないといけないし、教育の目的は関わり合いを深め豊かにすることだ。
その材料として知識や技術の伝承があっていいが、それらは関わり合いを深める媒体にすぎない。
ところが、関わり合いを薄くして、テストのいい点数を取ればいいだとか、生徒をいい学校に入れたいとか結果のことばかり考える。
教育で生徒は、敏感な心をつくり、関わり合いが好きになっていく。それが教師としての楽しみでもある。
それを教師に言うと、現場の教師は「そんなことを言うけど、これぞ真実という正しいことがなかったら、指導できないし教育が成り立たない」と反論されたことがある。
だが、そうじゃないんだ。教育の目的は生徒との関わり合い、知識との関わり合い、これをどんどん深めていくことなんだ。
さらに考える練習をいろいろやるというのが教育の本命なのに、覚えることに汲々(きゅうきゅう)としている現実がある。家康を教えたら、信長はどうだったのかなどといろいろ頭の中で枝葉を伸ばして考える。
何より頭が柔軟でないと発明も発見もできない。
京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥氏と話をしたことがあるが、「今の教育ではノーベル賞は出なくなる」ということだった。
それは考える喜びというか、不思議さを楽しんだり疑問に思ってどうだこうだといろいろ考えを巡らすということが教育の現場から消えつつある。それどころか、ただ丸暗記させて点取りゲームに勝つ人間をつくっている。
これでは人間としての伸びしろを自ら切り取っているようなものだ。
――クラブ活動の外注問題は、どう考える。
よろしくない。
クラブ活動は子供と関わる大事な場だ。それを外注して、先生はテストの採点だとか膨大な事務仕事に追われるというのは本末転倒だ。
そうした些末(さまつ)な事務仕事は、教育事務を専門にする事務方を増員すればいいだけの話だ。お人よしのお母さんみたいに、先生が全部しょい込む必要はない。
ただ何を捨て何をこなすかは選別が必要だし、しっかり交通整理する必要がある。
――人は「つながりの存在」というのは興味を引くが、時間軸でも現在というのは、過去と未来をつなげる立場だ。
そうだ。
個人は過去の歴史の産物だし、今を生きることは未来をつくり出しもする。同時に家庭や社会、国家に支えられて初めて存在する「おかげさまで生存し得る従属的な存在」でもある。このことをしっかり再認識する必要がある。
豊かな歴史があり、素晴らしい自然に守られている日本人こそ、和の精神で西洋近代思想の過ちを正し得る重要な使命を持っていると、強く自覚すべきだ。
――具体的にどういうことか。
自由・民主・人権の表層に漂う明るい面に惑わされず、訓練、鍛錬こそが個性を育むという大原則がある。
自由放任は決して個性の伸張には益せず、時間軸の縦と空間的横のつながりを軽視することは人間の品位品格を低下させる。
こうした日本の先人たちが長い歴史の中で習得してきた原則こそを、人間と人間の関係の基盤に据えることが、現代の世相の混乱を収束させる最善の道であると確信する。
そうすれば「羅針盤を持った船」のように、自律的に己を己が律することができるようになると思う。
日本は仏教、儒教の影響で、初七日や四十九日、年忌法要など死後儀礼が長く、縦のつながりを大事にする。民主主義も平面的な民主主義の他に、時間的な民主主義も重要だとする英国の学者もいる。彼は、空間的デモクラシーの拡大が近代の主流であったが時間的デモクラシーには何万何億の先人の祈りが参加して伝統を形作ってきたと主張。また、現代を生み出したのは過去の人たちであり、彼らの願いを考慮して現代の政策を決定すべきだし、これを受け継いだ子孫が幸せになるのか、どんな発言をするのかを考慮した意思決定をすべきだとした。
米国は歴史の短い国なので、平面的なことしか関心がない。戦後の日本は、その影響を受けている。しかし、縦軸があってこそ、個性も出てくる。
日本くらい民主主義が発達している国はない。家族が重大な事柄を決めるとき、親族会議が開かれる。そこでは誰もが1票を持つというのではなく、本家の当主が責任者となり、本家に近い順に責任を分担していた。本家の当主は、親族会議での議論を黙って聞きながら、ほぼ方向性が定まってくると結論を出し、その責任を負う。
つまり合議制による意思決定で、単なる父権主義(パターナリズム)ではない。これが平面的な民主主義だと多数決になってしまい、どんな決定になっても不満が残る。
日本はみんなが納得する民主主義を発達させてきた。
個々人を生かしながら、全体の調和を図る日本的和の精神だ。しかし、和の精神を強調し過ぎると、誰も自分の意見を言わなくなるなど誤解されがちだが「和して同ぜず」でなければならない。
【メモ】3年前、巨細胞性動脈炎という難病にかかり1カ月ほど入院を余儀なくされたが、奇跡的な治癒で「7割方、体調は戻った」とされる。現在は自宅で療養中だが、それでも講演依頼があればタクシーで駆け付けるなど精力的に活躍している。李登輝学校を前身とする修学院院長としての活動も再開し、現在は自宅の居間を開放し月1回の久保田ゼミを開催している。