熊野信仰と日本人の他界観―生田神社名誉宮司・神戸女子大学名誉教授 加藤 隆久氏に聞く

古くから「死後の葬送」観 浄土信仰を受け入れる要素に ムスビ・タマ・ケツミコ源流に

2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコ世界文化遺産に登録された熊野古道は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山に通じる参詣道の総称。古来、熊野三山が人々の熱狂的な信仰を集めてきたのは、神仏一体の「熊野権現」が貴賎男女の隔てなく、浄不浄を問わず、誰もを受け入れたからとされる。熊野信仰の成り立ちについて生田神社名誉宮司の加藤隆久さんに聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

かとう・たかひさ 昭和9年、岡山県生まれ。甲南大学文学部卒業、國學院大學大学院を修了し、生田神社での神職の傍ら神戸女子大学などで教鞭(きょうべん)を執り、生田神社宮司を経て現在は名誉宮司。兵庫県芸術文化協会評議員、神戸芸術文化会議議長、神戸史談会会長、世界宗教者平和会議日本委員会顧問などを兼務し、著書は『神社の史的研究』『神道津和野教学の研究』『神葬祭大事典』『よみがえりの社と祭りのこころ』『神道文化論考集成』など。

――熊野信仰の成り立ちは?

熊野信仰には固有信仰に修験道信仰、仏教信仰などが混淆(こんこう)しており、それらを明白に解くのは容易ではありません。本宮・新宮・那智からなる熊野三山が統一的な組織の成立を見たのは平安時代の貞観(859~877年)から延喜(901~923年)の時代とされ、中世に熊野の宗教的地位は急速に高まります。熊野詣は近世の高野詣・伊勢詣にも増して盛んになり、上は上皇・天皇・貴族から下は庶民に至るまであらゆる階層を網羅していました。特に源平時代には国勢の盛衰にも多大な影響を及ぼしています。

熊野信仰の源流をたどると、ムスビ・タマ・ケツミコの古代信仰に帰着します。ムスビ(産霊)とタマ(霊魂)は古代における神観念の最も一般的な形で、今でも熊野の神の主神は熊野夫須美大神(ふすみのおおかみ)、熊野速玉大神(はやたまのおおかみ)、熊野家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)の三神とされています。

熊野夫須美大神はクマノムスビの神で、速玉大神は文字通りタマを表し、家津美御子はその名が示すように食の神で、人間生活において最も重要な穀物を司(つかさど)る神です。

タマは神の本体を表し、ムスビはその働きを示すもので、故にムスビとタマは本来不二で、相関連して発生し、それが後に分離して二つの神格が成立したものと考えられます。

ムスビ・タマの観念は、原始信仰において最も根本的、根源的なものでした。ムスビは生成・化育の力に対する日本民族の根本的な信仰で、現象界あるいは宇宙空間における霊妙な力を名付けたものでしょう。つまり、熊野地方のあらゆる生産の作用を意味するものが熊野のムスビの神です。

ケツミコの神がムスビとタマに緊密に関係していることは言うまでもありません。タマの働きであるムスビの力によって穀物が育成されると信じられていたからです。

――「くまの」の意味は?

それについては諸説ありますが、共通しているのは、鬱蒼(うっそう)とした深山幽谷(ゆうこく)であることから、ムスビ・タマ・ケツミコの神が坐(ましま)す、霊妙不可思議な土地として畏怖されてきたことです。

『日本書紀』の一書に、イザナミの遺体が熊野の有馬村に葬られたとあります。紀伊熊野の地には古くから死後の葬送という観念があり、それを追福(追善)する宗教的行事が行われていたことがうかがえます。

『日本書紀』の宝剣出現章の他の一書には、紀伊国熊成峰(くまなりのみね)が根国(ねのくに)にも通じる道と書かれており、熊野の地が常世国(とこよのくに)あるいは根国へ通じる入り口であると考えられていました。古代では、熊野は黄泉国(よみのくに)あるいは常世国の領域の一つのように考えていたことが推察されます。

熊野には古くからこうした幽冥(ゆうめい)感が漂っており、これが熊野信仰を生む母体となりました。

そして、後に出てくる補陀落渡海(ふだらくとかい)などの背後にも、こうした熊野の他界観があったのでしょう。南の浄土を目指し、僧らの行者が小さな渡海船に乗り込み、自死行為のように沖に出るという仏教の捨身(しゃしん)行の一つで、沿岸の各地で行われていました。

――古代人はどんな他界観を持っていたのですか?

黄泉国、根国、常世国と呼ばれる死後の世界は、スサノオが泣き焦がれるほど慕う母神がいる国であると同時に、そこへ入ったイザナギが、そこから出る時には禊祓(みそぎはらい)をしたほどに厭(いと)われた国でもあります。

黄泉国は死者の行く常闇(とこやみ)の世界で、暗く恐怖の影が漂います。それに対して常世国は常住の楽土と考えられ、海の彼岸にあると想像されていました。

日本の古代信仰を残す沖縄では、海の彼方(かなた)にニライカナイという楽土があり、人は死後、そこへ稀(まれ)に行くことができると信じられてきました。

この黄泉国と常世国とは別の国とも、同じ国ともされてきました。常世は常夜と同義で、天岩戸(あまのいわと)隠れに見られる暗黒の継続を示すもので、神の世隠れが考えられます。

しかし、それが「よ」に齢(よ)の連想が働くと、常闇の国からだんだんに不死の国というふうに転じていきます。そして神の死が直ちに神の誕生・復活を意味し、常闇国はすでに新しい光明をはらんでいました。すなわち、相反する黄泉と常世が相等しいものとし、矛盾をそのまま生かしたのが古代人の巧妙な思考力だったのです。

――日本人の他界観と熊野との関係は?

熊野地方が常世国に通じるとする思想が生まれる背景には、この地方に行われていた水葬の習俗が強く作用していたと考えられます。熊野一帯は古墳が極めて少なく、死者をいかなる形で葬ったのか疑問ですが、海に近いので、古来より水葬が行われていたとするのが妥当です。

水葬をしていた古代人は、海を隔てたはるかな国、祖先以来の魂の行き集まる所を常世国とし、そこへは船路あるいは海岸の洞穴から通い、死者ばかりが行くものとしました。

海上はるかな死の島、悲願の常夜国を考え、常闇国から次第に「不死の国」へと転じ、常闇国の思想から全く反対の富と齢の国へと思想が変化していったのでしょう。

それが、後に仏教が入ってくると浄土信仰を受け入れる大きな要素となり、中世以降に神仏習合(しんぶつしゅうごう)が進むと、死後、阿弥陀仏(あみだぶつ)がいる西方浄土に往生し、救われるという阿弥陀仏信仰が中心になるのも、根本の要素が熊野の固有信仰にあったからです。


【メモ】國學院大學大学院修士課程で神道学を専攻した加藤さんは、神社の広範な信仰形態を研究したいと思い、文部省(現文科省)の梅田義彦博士に相談したところ「熊野三山を研究したらどうか」と示唆される。以来、40日余り熊野三山にこもって調査、研究に打ち込み、修士論文「熊野三山信仰の研究」を安津素彦・西田長男教授の指導で書き上げた。加藤さんは甲南大学学生時代からの寺好きで、仲間と薬師寺で合宿し、高田後胤師らと親交を結んでいる。

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