妻との悲劇のロマンスも人気
沖縄・八重山の英雄オヤケアカハチは石垣島の大浜村(現・石垣市大浜)を根拠地とする15世紀末の豪族で、島民たちと琉球王朝に反乱を起こした。生まれは波照間島で、巨体に髪は赤茶色、精悍(せいかん)な顔つきから、漂着したオランダ船の乗員と島の娘とのハーフ説もある。石垣島出身の詩人、伊波南哲(なんてつ)の長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』を英訳出版した石垣島在住20年の米国人ゲアリ・ワイコフさんに話を聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

――「オヤケアカハチの乱」とは?
オヤケアカハチは八重山の島民に支持されていた首領で、琉球王朝への朝貢を2年から3年の間納めず、さらに宮古島を攻めたので1500年2月13日、軍船100艘(そう)、兵3000人を送り込んだ琉球軍に討ち取られました。これがオヤケアカハチの乱です。
大浜小学校の北側にある銅像の裏面には「体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けて日本人ばなれのした精悍な顔つきの若者。正義感が強く、島民解放のため先頭に立って権力にたち向い、大浜村の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた。爾来、今日まで英傑・オヤケアカハチの遺徳は大浜村の人々に『アカハチ精神』として受け継がれている」と記されています。
大浜公民館から大浜海岸に続く崎原道路を会場に、毎年旧暦6月に行われる大浜豊年祭は、八重山の各地で催される年間で最も重要な行事です。奉納芸能、ミルク(弥勒)様の行列などさまざまな伝統芸能が展開され、最後に崎原道路では住民総出の大綱引きで賑(にぎ)わいます。その崎原道路に面してアカハチの像があり、その奥に英雄を祀る御嶽(うたき)があります。石垣島では「白保の豊年祭」と呼ばれ、アカハチの大きな足跡が残るという海岸での神司(かみつかさ)の祈りに始まり、巨大な旗を立てた弥勒行列が大通りを進みます。

――宗教弾圧が原因ともされていますが?
1953年に建立された「オヤケアカハチの顕彰碑」には「文明十八年(一四八六)中山尚真王は使者を八重山に特派してイリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教として厳禁したところ島民は信仰への不当なる弾圧だとしていたく憤慨した。アカハチは島民の先頭に立って反旗をひるがえし、朝貢を両三年壟断して中山の反省を求めたが、尚真王は大里王子を大将とし副将並びに神女君南風らと共に、精鋭三千人を兵船四十六隻で反乱鎮圧に派遣した。アカハチは大いに防戦奮闘したが、衆募敵せず恨みをのんで底原の露と消えた。アカハチは封建制度に反抗して自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義感をもつて戦ったのである。戦いは利あらず敗れたけれどもその精神と行動は永く後世に光芒を放つことであろう」と記されています。
「自由民権を主張し」というのは本土復帰前の沖縄を象徴し、「島民のためにやむにやまれぬ正義感をもつて戦った」のは、本土復帰を願う島民の気持ちが反映されているように思います。
興味深いのは「イリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教として厳禁した」ことが反乱の直接的な原因になったとするくだりで、多額の経費をかける豊年祭が朝貢を妨げている、と琉球王朝は考えたのでしょう。
――日本の戦国時代のような話ですね。
かつて宮古・八重山諸島には琉球に属さない大平山(タイビンサン)という連合がありました。ところが、宮古の首領一族である空広(ソラビー)(仲宗根豊見親)が中山王府に恭順し、八重山にも臣従を求めてきたので、島民と共に対抗したのがアカハチでした。
アカハチに敵対した長田大主(ナータフーズ)も波照間島の生まれで、二人は幼馴染(なじ)みでした。長田大主はアカハチよりも早く石垣島に渡り、父親とされる宮古島の支配者・仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ)の力を借り、今の石垣市街を支配するようになります。
一方、アカハチは波照間島から石垣島で最大の大浜村に辿(たど)り着き、村のために働き村人に慕われるようになります。周辺の竹富島や小浜島でもアカハチに従う者が増え、やがて長田大主と対立するようになりました。宮古島の仲宗根豊見親はアカハチに年貢を催促したが拒否され、石垣島どころか宮古島までアカハチに取られてしまうと危惧を募らせます。
アカハチは首里王府や宮古の仲宗根豊見親に年貢を納めるのは不当で、八重山がまとまって抵抗すべきだ、と長田大主に共闘を持ち掛けます。しかし、長田大主はそれを断り、逆にアカハチ討伐を企てたのです。
長田大主は妹の古乙姥(クイツバ)に「隙を見て殺せ」と毒薬を持たせ、アカハチに嫁がせました。ところが、村人に親切で優しいアカハチを古乙姥は好きになり、兄の企みを明かします。アカハチに攻められた長田大主は石垣島から西表に逃れ、事の次第を宮古の首里王府へ知らせました。宮古の仲宗根豊見親が首里王府にアカハチ追討の援軍を求めると、琉球全土の支配を目論(もくろ)む首里王府は、これは好機と大軍団を差し向けたのです。
アカハチと島民たちは抵抗しますが、多勢に無勢で、於茂登(オモト)山の麓、底原(そこばる)に逃がれます。捕まった古乙姥はアカハチの居場所を吐くよう拷問されますが、白状しません。それを知ったアカハチは名乗りを上げ応戦したが捕われ、底原山のガジュマルの下で首をはねられ、古乙姥も殺されました。二人のロマンスはアカハチ人気の理由の一つです。
伊波南哲の長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』は演劇にもなりました。アカハチを民衆の自由のために立ち上がったヒーローとして描いた南哲は、人類という視点から歴史を見ており、先見の明があったと思います。
【メモ】ワイコフさんの仕事は翻訳と企業への英語教師派遣など。石垣島に住んで台風被害の多さを知り、合成繊維の台風対策ネットを製造販売している米国のハリケーン・ファブリック社の日本総代理店にもなった。川端康成や三島由紀夫への関心から早稲田大学に留学したことのあるワイコフさんは、アイヌ三大歌人の一人、森竹竹市の詩集『原始林』の英訳本も出し、「日本の最北と最南の詩人の英訳をしたことになります」と顔をほころばせた。