浄土思想が広めた仏教葬式
日本人にとって宗教とは何かが問われている。日本の宗教の本質が先祖崇拝にあることは、戦国時代に来日した宣教師たちの記録からも明らかで、その信仰が日本社会の縁を維持する力となってきた。しかし戦後、社会の世俗化、個人化に伴い、人間関係という縁が希薄になりつつある。その回復への手立てを、神道家でNPO法人「にっぽん文明研究所」代表の奈良泰秀さんに聞いた。

(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――「無縁社会」という言葉は2010年1月のNHKスペシャル「無縁社会――無縁死3万2千人の衝撃」がきっかけで広まりました。さらに、19年からのコロナ禍で葬儀のほとんどが少人数の家族葬になっています。縁には生きている人たちとの横の縁だけでなく、祖先から子孫への縦の縁もあります。
葬儀は身近な人と最後の別れをする大切な社会儀礼で、それが限られた家族だけで行われるようになると、社会の無縁化がますます加速するのではないかと思います。
――葬儀の約90%が仏式です。
仏教が主に葬式を担当するようになるのは浄土思想が広まった平安時代末からで、浄土教系の僧・聖(ひじり)たちが、それまでは山などに打ち捨てられていた庶民の遺体を手厚く供養したのが契機になりました。そうされることで自分たちも大切に扱われたと感じ、浄土宗が浸透するようになったのです。
江戸時代にはキリシタン対策で始めた寺請(てらうけ)制度により仏式の葬儀が強制され、仏式葬が一般的になります。もっとも、国学が盛んな津和野藩などでは神道式の葬儀、神葬祭をしていました。江戸中後期に日本古来の精神・文化に立ち返ろうという国学が興隆すると、その一環として神葬祭を求める運動が起こり、幕府も限定的に許可しています。
明治時代になると、政府の神仏分離政策として神葬祭が奨励され、青山霊園がその専用墓地として設立されました。明治6年には火葬は仏教習俗として禁止されましたが民情に合わず、2年後に解禁になります。
一方、神道は宗教ではなく国家の祭祀(さいし)で国民の道徳だとする、明治政府のいわゆる国家神道化に伴い、葬儀は宗教行為なので、公務員に相当する神職が神葬祭を行うことは禁止されました。宗教の道を選択したのは、幕末に生まれた教派神道くらいで、神葬祭は普及しませんでした。神職が神葬祭をできるようになったのは、神社も普通の宗教法人になった戦後からです。
――戦後、神社本庁の設立に尽力し、宗教法人法に基づく宗教としての神道の確立に努力したのが、神社本庁の教学部長も務めた神道学者の小野祖教(そきょう)や葦津珍彦(うづひこ)です。奈良さんは小野先生に教わっていますね。
小野祖教先生は、戦前の国家神道を戦後の民主主義体制の下で宗教として再生させるため、神道の現代化を進めました。「まこと」の概念を基に神道の理論を解釈し直し、それに基づいて神道者が実践すべき事柄を再定義したのです。
小野先生の研究室は著名な神道学者を輩出し、昭和38年に刊行した『神道の基礎知識と基礎問題』は、60年を経過した現在でも神職必携の書です。私どもの神職養成の神道神祇本廰では、神職養成講座の中級後期に、昭和49年に先生が著した古希記念論文集『神道教学論攷』から、「祓と祓の神との神学―新しき神学的発想を得て―」の講読と論文提出を必須科目にしています。
――日本人の縦の縁を明らかにした柳田國男が終戦前後に出した『先祖の話』です。
柳田が同書を書いた目的は、日本に古くから伝わってきた「家」を、未来永劫(えいごう)にわたり子孫に引き継ぐためです。そのため柳田は、先祖に対する信仰はわが国古来の美風で、先祖を祀(まつ)ることに祭りの一義的な意味があったことを解明したと言えます。家の存続にこだわったのは、戦死した人々を祀る家がなくなれば英霊も浮かばれないという危機感からです。
柳田は、戦後日本の大きな課題が戦死者の鎮魂にあるとし、仏教受容の前から日本人が持ち続けてきた祖霊信仰の回復を唱えました。仏教が説くように、死者は遠い極楽(浄土)や深い地獄に行くのではなく、家に近い故郷の山に留まり、常に家族を見守り、盆や彼岸には家族の元に帰って来る――というのが民族の固有信仰だと言っています。仏教も日本古来の信仰や習俗を取り入れて広まったのです。
同書で柳田は、日本人の宗教的な感情の本質は血縁への信頼で、その感情が先祖崇拝を生み、それが先祖を神として祀ることにつながったと主張しました。先祖教ともいうべきものが日本人の宗教の本質で、それは日本人がこの列島で生活を始めた頃から変わらないと柳田は考えたのです。仏教を受容しても、先祖を神として祀ることは、日本人の宗教意識の本質として変わることはありませんでした。
人の死によって肉体は滅びますが、魂はどうなるのか。日本人は思いを巡らせ、亡き人の魂はいつまでも土地に留まり、愛しい人や子孫と共に生き、見守っていると信じるようになりました。縄文人は、朝には昇り夕には沈む太陽のように循環的な死生観を持ち、人の命も先祖から子孫へと循環すると思っていたのでしょう。
――奈良さんは神葬祭を進めていますね。
『古事記』などに書かれた日本古来の葬式の在り方を見直し、それを現代に生かすことで人々の選択肢を多くすると同時に、死に関わる儀礼の文化を豊かにしたいからです。
いくら文明が発達しても、死生観が極端に変わるとは思えません。神葬祭の精神と祭祀には、古来からの祖霊信仰が鮮明に表現されています。神葬祭を通して民族の精神性の原点に立ち返れば、私たちは古来の死の文化に目覚めるのではないでしょうか。それが現代人の空虚感や孤独感を癒やし、心の平安につながると期待して活動しています。
【メモ】記者(多田)が青森の三内丸山遺跡を見て感心したのは、集落から海辺に向かう道の左右に大人の墓が並んでいたこと。先祖に見守られながらの暮らしである。それとは別に、生後間もなく亡くなった子供の遺骨を入れた壺は集落内の建物に納められ、石の玉が二つ入れられていた。命の再生を願ったのであろうか。函館の縄文遺跡からは、早世したと思われる子供の足型の粘土が出土しているなど、自然に即した循環的な死生観を想像させる。