基本は「ありのままを見る」 鎌倉時代に救済宗教へ
貴族から大衆に浸透
約2500年前、インドで釈尊(しゃくそん)が起こした仏教は中国、朝鮮を経て日本に伝わり、独特の展開をしながら日本人の心性を形成してきた。コロナ禍で死を意識し、生き方を振り返る機会が増えたからか仏教書が多く出版されている。信者数が最も多い浄土真宗の教えと釈尊の教えを比較しながら、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の瑞田信弘住職に、日本仏教の特徴を聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
――NHKカルチャー高松教室で6年間「釈尊から親鸞へ」を語っているのは?
仏教講座では法然や親鸞、道元、日蓮など宗派の宗祖について語ることが多いのですが、始まりは釈迦(しゃか)の教えですから。
――司馬遼太郎は「本来の仏教というのは、じつにすっきりしている。人が死ねば空に帰する。…キリスト教やイスラム教のように、預言者がコトバをもって説いた宗教(啓示宗教)なら教義が存在するが、…本来の仏教はあくまでも解脱の方を示したものであって…戒律とか行とか法はあっても、教義は存在せず…救済の思想さえない。解脱こそ究極の理想なのである」(『この国のかたち』)と言っています。
釈尊の教えは「四諦(したい)八正道(はっしょうどう)」に尽きます。この世は苦で(苦諦(くたい))、苦の原因は煩悩で(集諦(じったい))、煩悩を滅した境地が涅槃(ねはん)であるから(滅諦(めったい))、「八正道」で涅槃を目指すべきである(道諦(どうたい))というものです。諦は「あきらめる」ではなく「明らかに見る」ことで、「真実・真理」を意味し、釈尊は、縁によって成り立っているこの世と人生の真実を知り、真理に沿って生きよと教えたのです。
――八正道とは。
正見(しょうけん)(正しく見て)、正思惟(正しく考え)、正語(正しく話し)、正業(正しく行い)、正命(正しく暮らし)、正精進(正しく努力し)、正念(正しい思いを維持し)、正定(正しい精神を保つ)です。この中で一番の基本は「正見」で、偏った見方をせず、ありのままに見る(中道)こと、それによって正しい行為ができ、煩悩を滅し、涅槃の悟りに至るとしたのです。
――自分で自分を救う…。
涅槃(死)の間際、弟子たちにこれからどう生きればいいのかと聞かれた釈尊は「自灯明、法灯明」(自分と真理を目印に生きよ)と遺言しています。
――それが救済の宗教になったのは?
悟りを開くのも大切だが、人々の救いも目指すべきではないかという考えが広まり、それが大乗仏教になったのです。釈迦仏教は南アジアから東南アジアへ、大乗仏教は西域から中国、朝鮮、日本へと伝わります。釈迦仏教はかつて小乗仏教(小さな乗り物の教え)と言われていたのですが、差別的だとして、現在ではテーラワーダ仏教(上座部仏教)と呼ばれています。
――16世紀のキリスト教の宗教改革のようなことは?
それに匹敵するのが13~14世紀の鎌倉仏教でしょう。当初、護国仏教として受容され、奈良時代は学問のように学ばれ、平安時代から鎌倉時代にかけて救済の宗教として貴族から大衆に浸透していったのです。
――司馬遼太郎は「浄土真宗は本家離れしてキリスト教に似た救済性をもった。…親鸞は大乗経典のなかでも『阿弥陀経』のみを自分の体系(宗)の根本経典とし、阿弥陀仏をGodに似た唯一的存在と考え、その本質を光明(キリスト教の用語でいう愛)としてとらえた」(前掲書)と述べています。
浄土真宗はキリスト教に似ていると言われます。阿弥陀(あみだ)仏に対する絶対的な帰依(他力本願)がキリスト教の信仰に近いと思われるからです。強い信仰の絆(きずな)で結ばれた浄土真宗の門徒(信者)らは、阿弥陀仏のみに仕える信仰から、戦国時代には領地から大名を追い出し、門徒らによる自治を実現するなどの一向一揆を起こし、織田信長や徳川家康などの戦国大名を震え上がらせました。ひたすらな信仰から一向宗と呼ばれたのです。
――資本主義を支えたプロテスタンティズムの倫理のようなものが浄土真宗にもありますか。
代表的なのが近江商人の「三方よし」でしょう。売り手と買い手が満足し、さらに商いを通じて社会の発展に尽くすとの教えです。蓮如が布教した近江(滋賀県)に源流を持つ企業は、西武グループや伊藤忠商事、トヨタ自動車、日本生命保険、武田薬品工業など数多くあります。
――プロテスタンティズムの倫理は、天国で救われることが予定されている証として、現世で勤勉に働くというカルヴァンの二重予定説に基づく信仰です。
それに当たるのが浄土真宗の往相(おうそう)と還相(げんそう)の二種廻向(えこう)で、阿弥陀如来の誓願により死後、浄土で救われ(往相)た者は、再び現世に戻り(還相)、人々を救うという教えです。浄土往生を約束された証として、現世の人々を救うという倫理がそこから生まれたのだと思います。
――さだまさしさんが法然800年大遠忌を記念して作った「いのちの理由」に「私が生まれてきた訳は どこかの誰かに救われて 私が生まれてきた訳は どこかの誰かを救うため」とあります。
まさに二種廻向ですね。
――仏教は人に「寄り添う」宗教ですね。一神教のように、天上にいる神が下にいる人たちを救い上げる教えではない。
親鸞が大事にしたのも平等性で、そこに仏教の本質を見いだしたのは聖徳太子で、親鸞は太子を「和国の教主」と尊敬しています。私が終活講座に取り組むのも、孤独になりがちな高齢者に寄り添いたいからです。
――遠藤周作の「同伴者イエス」を連想します。
浄土真宗の阿弥陀仏は私たちと一緒に生きてくださる仏です。四国遍路の言葉で言えば「同行二人」、一人で歩いていると思っていたら、いつの間にお大師さんが一緒に歩いていた、になります。日本人には、神仏は遠くではなく、私たちの身近におられるという神仏観があります。
【メモ】公民館や老人施設でのボランティア終活講座に汗をかく瑞田さん。生きている人のための仏教がライフワークで、医師や弁護士、ファイナンシャルプランナー、仏事コーディネーターなど専門家のネットワークで、よろず相談に応じている。「近頃は夫と同じ墓に入りたくないという女性が増えた」と、孤立化する世相を嘆きながらも、檀家(だんか)や宗派を超えて人々のために働く。そのひたむきさに、日本の歴史を動かしてきた一向宗の伝統を感じる。