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疑問符つく反基地の平和教育 元教員・上原義雄氏

祖国復帰50年 新時代への提言(4)

Photo by Kazuo ota on Unsplash

戦後は、「1食抜きでもいい、裸足(はだし)になってもいい、イモを食べる生活でもいいから、一日も早く祖国に帰りたい」という声が全島に広がっていて、沖縄教職員会を中心に祖国復帰運動が大きな県民運動として高まった。

教職員会は、学校に日の丸を配布し、国旗掲揚運動を推進してきた。私が中学3年の頃、日の丸と竿(さお)が学校で配布された。祝祭日になるとどの家庭でも喜んで国旗を掲揚した。ところが、沖縄が復帰すると決まるとおかしなことになった。安保反対、基地反対の運動の影響で国旗を掲げる家がほとんどなくなってしまったが、私は復帰に賛成だったからずっと誇らしく掲揚した。

復帰したい純粋な願いを実現するための運動がいつの間にか、革新勢力の政治手段に利用されてしまった。

うえはら・よしお 昭和12年、那覇市生まれ。琉球大学で物理学を専攻。卒業後、中学校教師として務める。昭和56~59年までドイツの日本人学校に勤務。現在、日本会議沖縄県本部の那覇支部長。

組合の指導部が、復帰よりも反基地や反安保を叫ぶようになると、末端の教員の思想信条などほとんど考慮されなかった。27年間、復帰を求め続けてきたものが、かくも変化するのかと思うと、沖縄返還要求は嘘(うそ)だったのかと疑いたくなる。まずは復帰してから基地のことや安全保障をどうするかを考えればいいのであって、復帰しなければ何も始まらない。

嫌気が差して教職員会から抜けたが、共感はしてくれても自己保身からか一緒に脱会してくれる先生はほとんどおらず、学校内ではいつも孤独だった。

復帰から5年前の1967年、立法院(県議会に相当)が制定しようとした教公二法は政治活動や選挙活動を禁止した代わりに、公務員の身分を保証するものだった。ところが、教職員会の暴力や圧力で廃案にされた。その当時、教員ストで交代で座り込みに行っていたが、「私は行きません」と断った。「安保に賛成だから教公二法に賛成です」と。

その後も、返還協定調印反対スト、返還協定粉砕スト、即時通貨切り替え要求ストなど、違法・不法行為を繰り返した。

子供の見本となるべき教師が堂々と法を無視していいのか。結果、法を無視する若者が増加した。「先生もストをしてるじゃないか」と言われると言い返せなくなる。71年3月、学校がストで閉鎖されて使えないので、生徒を外の公園に集めて青空教室を行った。この子たちが卒業すると、「先生が言っていたことが正しかった」と言ってくれたのは救いだった。

50年前、沖縄県民は本当に復帰したいと願っていたから、復帰できて良かったというのが率直な気持ち。当時、反復帰運動に携わっていた同僚の教員も復帰して良かったと言っている。

ただ、「心は上原さんと同じだよ」と共感してくれた元教師の中には、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先の辺野古(名護市)の座り込みに参加している人もいる。人の心はいともたやすく遷(うつ)ろうのかと思うと寂しい気持ちだ。

71年に中国が核実験をした当時、学校の掲示板には「中国の核は平和の核、アメリカの核は侵略の核」と書かれていた。プロパガンダに騙(だま)されたこんな教師が子供たちを騙し続けたことになる。こんなことは本来あってはならない。

 今の平和教育にも疑問だ。基地があると戦争になるというが、現実は、基地がないところや、抑止力のないところで戦争が起きている。ロシアを見て分かるように、実力がないと攻められ、沖縄にとっても良い勉強になったのではないか。辺野古代替施設は日本全体、そしてアジアを守るために必要だ。相手から攻められないための知恵を子供たちに教えないといけない。(聞き手・豊田 剛)

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