1964年に琉球銀行に入行したが、復帰当時は通貨交換の窓口で働いていた。沖縄の復帰前の法定通貨は米ドル。集まったドルを束ねて日本銀行に渡す時には寂しさはあった。
沖縄で流通していたドル紙幣は約1億㌦と見積もり、当時のレートで1㌦=360円。これに手数料などの分で1・5倍と単純計算し、540億円が海上自衛隊によって運ばれてきた。あの緊張感は忘れることができない。その当時、通貨と為替レートが変わったことで、沖縄県民にとって物の価格が判断できない時期が生じた。
復帰前の政治的な側面にも目を向けたい。復帰が決まると、屋良朝苗主席は、政治的な立場を超えて行政ベースで復帰施策の策定に取り組んでいた。71年8月ごろまでは比較的スムーズに作業が進められていた。ところが、土壇場になって革新勢力がより政治性の強いスローガンに従って行動すべきとして「屋良建議書」を作成させた。
復帰は完璧な形と言えないが、日本に復帰するということに99%疑問はなかった。残り1%というのは、日本の政治経済システムに順応できるのかという疑問だけだった。
復帰前はドル通貨が流通し、基地依存型経済だった。製造業がない分、基地収入に頼り、物資供給は輸入するしかなかった。50年代ごろから日本は高度経済成長真っ盛りで、復帰してから本土の制度とどう一つにするかが大変な作業だった。
復帰してから第2次産業を中心に企業誘致をすることが必要だった。所得を倍増するには製造業を倍にしなければならなかった。同時に地元の既存産業も守らなければならなかった。その文脈で沖縄振興開発計画が作られ、そこに沖縄は期待した
これまで、5次にわたって10年単位の沖縄振興開発計画があった。最初の目標は「格差是正」であり、沖縄の後進性を是正して「本土並み」へ引き上げていくことだった。産業経済の遅れを救済する企業減税などの特別措置や社会基盤建設に対する高率補助という大きなメリットを受けた。
2002年、副知事として第4次振興計画を策定した際、格差是正に主眼を置くことに嫌気が差した。遅れている要素については「不利性の克服」という表現に改めた。遅れていることをことさら強調することは県民に劣等感を与えるのであり、沖縄の優れているものを伸ばすことが必要だと考え、「優位性発揮」を目指した。沖縄県は47分の1ではなく、1対46というぐらいの気概で復興に取り組んだ。
沖縄県が発展しないのは基地があるからだというが、本当にそうなのか。基地が返還された那覇市の新都心地区と小禄地区を例に取っても分かるように、基地が返ってきたからではなく、返ってきたところが発展した。しかも、その当時は全国で大型ショッピングセンターが次々と誕生する時期と重なっていた。
沖縄の諸問題は世界とリンクしている。「自分さえよければ」という独り善がりではいけない。世界を見て変えられるものは変えていく。変えられないものは受け入れる謙虚さも併せ持つバランスが沖縄に求められている。
沖縄県に将来構想に対する処方箋がなく、夢物語しか語っていないことに疑問を抱いている。世界情勢や経済の変化に耐えられる地力を付けることが必要だ。