反対運動乗り越え 県民が理解 沖縄県隊友会初代会長・石嶺邦夫氏

祖国復帰50年 新時代への提言 2

いしみね・くにお 昭和8年、読谷村出身。中学教員、陸上自衛官を経て銀行員に転職。辞職後は自衛隊沖縄地方連絡部(現地方協力本部)の事務職として自衛隊広報や隊員サポートに努めた。初代沖縄県隊友会会長。防衛協会理事。

子供の頃の夢は陸軍将校になることだった。中学教員として働いていた当時、旧軍出身の学校指導主事と懇意になったが、この人物が素晴らしい人格の持ち主で、自衛隊に入ったきっかけになった。「一緒に(自衛隊に)行くか」と背中を押してくれて、昭和32年に鹿児島の陸上自衛隊に入隊した。

ただ、「長男だから早く実家に帰ってきてほしい」という両親から懇願され、2年半で沖縄に戻ってきた。

帰沖後は、高校時代の恩師の紹介もあり、英語ができたことから、銀行に就職し、外国為替を担当した。それから10年ほどたった昭和43年、熊本から制服を着た自衛官が私に会いに来た。西部方面総監部の募集課長の1等陸佐だった。これが運命的な出会いだった。

「あと、3年もすれば沖縄が日本に復帰する。そうすれば自衛隊が駐屯する。そこで私の願いを聞いてくれ」と三つのお願いをされた。それは、①自衛隊協力団体の結成②自衛官募集③自衛隊駐屯に係る広報活動――をすることだった。所属当時の大隊長の名刺と先輩からの紹介状も添えていたため、軍人魂が蘇(よみがえ)った。躊躇(ちゅうちょ)なく「分かりました」と返事をした。

約1年半の準備期間を経て地元紙に隊友会(自衛隊OBで構成)の募集をしたところ23人集まった。復帰直前には沖縄出身の自衛官が400~500人いるという情報をもらっていた。

昭和46年、那覇を訪れていた中曽根康弘防衛庁長官(当時)から「防衛協会を作るためのメンバーをリストアップするように」とお願いされ政財界のトップ30人以上を誘い、翌年3月に防衛協会を発足させた。復帰の2カ月前で自衛隊駐屯地開設に向けた下地は整った。

米統治下では、米軍の事件事故が頻発したことで県民の反米感情は高まっていたが、自衛隊に対しての直接の批判は感じていなかった。

ところが、日米両政府によって沖縄返還が決まると、昭和35年に結成された沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が「核抜き本土並み」を激しく求める中で、本土から過激派の学生らが入り込んできて、自衛隊駐屯に対しても県民の怒りが向かうようになった。

反対運動が激しい中、隊友会のメンバー50人ぐらいで全県で自衛隊周知のための映写をした。火炎瓶投げ込みなどの過激な事件が多発し、警官が殉職する事件もあった。

皆、ボランティアで働いてくれていたから、彼らの身に何か起きたらどうしようと夜も眠れないほど心配な日々を過ごした。ただ、幸い無事故で終わり、安堵(あんど)した。

那覇駐屯地の開設に先立ち、昭和47年3月1日、熊本に臨時第一混成群(後の第15旅団)が編成されたのだが、その主力は、同年10月から12月にかけて沖縄に部隊を移駐した。その時、「日本軍帰れ」という激しいシュプレヒコールが起こり、自衛官の住民登録拒否や官舎への入居拒否、駐屯地内のごみ処理拒否、自衛官の家族の転入手続き拒否など、ありとあらゆる迫害を受けた。

それでも、その後、緊急患者空輸や不発弾処理などの民生支援を含め、自衛官が歯を食いしばって真面目に任務を遂行した。それ以外にも、献血運動をしたり、サトウキビ収穫などの農業支援もした。

こういう努力の積み重ねがあって現在、自衛隊が認知されている。こうした姿を見ると、駐屯地立ち上げ準備はやりがいがあったと感じ、素直にうれしい。

憲法9条、専守防衛では国を守れないと思う。「日本の自衛隊は弾を撃たないから心配していない」と中国など周辺国になめられている。戦争をしないためにしっかり備えることは重要だ。(聞き手・豊田 剛)

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