1972年5月15日、沖縄県は日本に復帰した。祖国・日本への復帰はどう映ったか。50年を経て現在の沖縄をどう評価するか、そして将来のあるべき姿とはどのようなものか。政治、経済、文化、教育、防衛など各分野のキーパーソンに復帰の思い出と過去50年の総括、今後の沖縄の在り方をそれぞれの立場で語ってもらった。(聞き手・豊田 剛)
沖縄が本土復帰する3カ月前までは日本貿易振興機構(JETRO)の調査員としてニューヨークで働いていた。1969年11月21日、佐藤栄作首相とニクソン大統領の復帰に関する共同声明のニュースに触れ、ある種の感慨を覚え、とても興奮した記憶がある。
沖縄県が復帰した当時の屋良朝苗主席(知事に相当)との思い出はさらに過去にさかのぼる。教師だった屋良氏は、母親の理科の教師で、プライベートでの付き合いはあった。
いざ復帰が決まると、当時「核抜き、本土並み、72年」というスローガンのもと核も基地もない平和な沖縄を返せという闘争が激しくなり、もともと復帰に賛成していた屋良さんは大変苦労していたことが伝わってきた。
戦争をしないで領土が返還されるのは世界史でも類を見ないことだ。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したが、毎年この日は日本が独立を回復した一方で、沖縄は日本の施政権から切り離された「屈辱の日」と称して、鹿児島と沖縄の県境で海上集会が行われている。「屈辱の日」というのは一般県民の感覚から懸け離れたおかしな表現だ。これは一種の恨み節でしかない。当時の沖縄の新聞は、一斉に返還というわけにはいかないから、それで良しとしようと理解を示す論調だった。
沖縄が日本の一員になったことを実感した良い思い出はいくらかあるが、その一つが平成5年の全国植樹大会だ。帰国後しばらくして、大田昌秀革新県政のもと副知事を務めていた当時のことだが、県民がこぞって日の丸の小旗を振って天皇・皇后両陛下を迎えた姿は感慨深い。
復帰して50年間を一言で表すと、「自信をつけさせてもらった50年」と総括できる。
沖縄独自の文化・芸能は日本で鑑賞され、理解されるようになった。スポーツ界は、ボクシングで世界チャンピオンが誕生した。高校野球でも沖縄の学校が全国優勝するまでになった。沖縄のプロバスケットボールチームは常勝集団となった。
インフラ面でも劇的に良くなった。産業インフラはもちろん、生活インフラも整い、最近では水不足による取水制限も経験しなくなった。観光では世界トップクラスのホテルが次々と沖縄進出し、コロナ禍直前まではハワイ並みの水準に近づいた。
プロバスケの本拠地の沖縄アリーナ(沖縄市)は、内閣府の沖縄振興特定事業推進費や防衛省の再編推進事業補助金を活用し、とても立派なものができた。
ただ、沖縄は東西南北に島が米粒のように散らばっているため、経済自立をするのはほぼ実現不可能だ。過去50年間にわたり政府は沖縄にシンパシーを持って向き合ってくれたことには感謝しかない。
世界情勢が不安定で、沖縄を取り巻く環境は厳しい。沖縄は50年間、ずっと米軍や安全保障の考え方をめぐって左右で対立してきたが、有事に対する備えはしっかりやっておかないと、守るべきものを守れず、荒波を乗り越えることはできない。日本全土にミサイルを配備するぐらいの覚悟が必要だ。