説話文学に見る日本人の信仰―市谷亀岡八幡宮司 梶謙治氏に聞く

神道の大地に渡来仏教根下ろす 相互補完で独自宗教観形成

Photo by Kentaro Toma on Unsplash

西洋では土着信仰を否定

ウクライナ戦争で再認識させられたのは、人類はまだ宗教・思想の対立を克服していないこと。日本の歴史を振り返ると、基層信仰である神道の上に普遍的な唱導宗教である仏教を受容したが、不思議に長い期間にわたる厳しい対立は起きず、神仏習合という世界的にも珍しい信仰を形成してきた。その歴史と意味について、説話文学に詳しい市谷亀岡八幡の梶謙治宮司に聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

梶宮司が法政大学で中世説話文学を専攻したのは。

『平家物語』に魅かれたのが始まりで、そこから中世の軍記物、説話、歌集を読むようになりました。文学が広まる過程で大きな役割を果たしたのが説話で、『平家物語』にある仏教的な教えや、数は少ないのですが儒教的な話が多く作られ、そこから、日本人の美的感覚やものの見方、考え方が分かるので、興味を覚えました。

歴史には国史に描かれるような大きな物語だけでなく、人々の暮らしの中で生まれた小さな物語がたくさんあり、それらが積み重ねられて今日の日本と日本人があるのです。指導教官は中世国文学者で、『平家物語全訳注』(講談社学術文庫)を出した杉本圭三郎教授でした。

梶宮司は法政大学文学部日本文学科卒業の後、國學院大學文学部神道専攻科を修了し神職になった。27歳で父の後を継ぎ、室町時代、太田道灌が江戸城の西の護りとして勧請した市谷亀岡八幡宮の宮司となる。古典に詳しく、日々の務めのほかブログ、講話、人生相談などで神道を広めている。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。

その後、國學院大學で神職の資格を取る過程で、人々の信仰について深く探究したのは、9世紀初めに作られた日本最古の仏教説話集『日本霊異記』です。当時の説話にはなるほどと思うことが多くありました。

神社の始まりは地域や氏族、職業などの神を祀(まつ)ることで、その意味で共同体の宗教と言えます。それに対してインドで生まれ、中国を経由して日本に渡来した仏教は、地域や民族を超えて個人の救いを求める世界宗教、普遍宗教でした。

それを聖徳太子ら当時の指導層は、律令制と合わせ古代国家造りに使ったのです。律令時代の僧は国家が認めた官度僧(かんどそう)が中心ですが、『日本霊異記』を書いた薬師寺の景戒は自分で剃髪(ていはつ)した私度僧です。勝手に僧になるのは禁じられていたのですが、一人ひとりの救いを説く仏教は、自分なりの思いで出家する人たちを生み出します。

当時は神仏習合が進んでいた時代でした。

仏教の因果応報を示す説話が多く収録されています。悪事は、殺人や盗み、狩りや漁も含まれ、とりわけ悪いのが僧への危害や侮辱です。前世の悪のために人が牛になる話もあります。

記紀神話には因果応報は書かれていませんが、それをもって日本には因果応報の思想がなかったとはいえません。基層信仰の神道においても人々は同じ心性を持っており、特に罪と穢(けが)れの概念は、それが仏教が一般に流布する段階において、因果応報という言葉で再認識されたというのが腑(ふ)に落ちる言い方でしょう。実際には、良いことをすれば良い目にあう、悪いことをすればその報いを受けるということは、日本人の経験知にあったから、仏教の論理がスムーズに受け入れられたのだと思います。神々を祀る形態の中で因果応報が組み込まれていたのです。

神道という基層信仰に渡来の仏教が根を下ろし、日本固有の宗教観信仰観ができる黎明(れいめい)期ゆえに、景戒は「外国ばかり見るな、日本には日本の仏教があり、いろいろな不思議な出来事がある」とも言っています。

伊勢の多度山の神が、神であることが苦しくなったので、神の身を離れ仏教に帰依したいと言って、境内に神宮寺の設置を求めたという話が、神仏習合の時代には多くあります。

既成宗教である神道を仏教が取り込んだという話ですが、それを進めた僧たちが伝えたのでそういう話になったのでしょう。それに対して八幡神社では、八幡大菩薩と言われるように、神と仏がほぼ対等のかたちで習合しています。東大寺の大仏建造に宇佐八幡の八幡神が協力したとの記録から朝廷は781年に、宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈りました。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まったのです。

神道は「言挙げせず」と言って、教義を言葉で説明することに熱心ではありません。

 一方、仏教はインドや中国で鍛えられ、豊富な言葉で教えや解釈を言語化してきました。そうした仏教の言葉に接した当時の日本人は、自分たちの心性や信仰を、その言葉を使って表現するようになったのでしょう。ですから、仏教は神道を否定することなく、基層信仰と普遍宗教が補完し合いながら、日本人の信仰を形成してきたのです。ヨーロッパに伝わったキリスト教が、基層にあったゲルマンやケルトの信仰を否定し、消し去ったのとは異なります。

イギリスのストーンヘンジを造った石器人は、金属人に抹殺され、DNAも残っていませんが、縄文人のDNAは今の日本人にもあります。

弥生人によって縄文人が僻地(へきち)に追いやられることはありましたが、抹殺されることはなく、融合した人たちもいました。

諏訪大社の起源は、国譲りに反対した大国主神の次男の建御名方神(たけみなかたのかみ)が、建御雷神(たけみかづちのかみ)との戦いに負けて諏訪に逃れたこととされています。これも弥生文化の中での縄文文化の残滓(ざんし)で、鹿の生首を供える祭礼は縄文の名残ではないか。縄文文化は日本文化の根っこに残っています。

神社には地域の歴史が蓄積されています。

八坂神社には疫病と戦ってきた歴史が、八幡神社には武士による統治の、天満宮には学問の歴史などが残されています。東日本大震災の被災地でも、社殿の再建や祭りの復活が地域再生の大きな励みになっています。それらが地域の人たちを団結させるきっかけになるからです。

神道の基本は人と自然との調和ですね。

聖別された神社は、人が公私の分別を知る所でもあり、これは学校教育や家庭教育と連携して地域の子育てに活用できます。

【メモ】 徳川三代将軍家光や五代将軍綱吉の母・桂昌院から篤く信仰されてきた市谷亀岡八幡は、ペットのお守りを最初に出した「ペットの神社」としても知られている。綱吉の「生類憐みの令」つながりからペットを家族として扱うようにし、初詣や七五三には着飾ったペット連れの参拝者が多い。そうした自然観は「山川草木悉有仏性」の日本仏教にも通じ、自然を神として感謝し、畏れてきた神道の自然観の上に日本的仏教が生まれたのだろう。

spot_img
Google Translate »