厚生労働省の「宗教の信仰等に関する児童虐待」(宗教虐待)対応Q&A(指針)は、公表された当初から宗教への偏見・差別を助長するとの批判が強かった。その指針に対する訴訟が起こされている。この際、政府は指針を撤回すべきである。
「エホバ」が無効確認要求
国に指針の無効確認や損害賠償を求めているのは宗教団体「エホバの証人」と信者20人。指針に教団の教えに関わる項目があるからだ。
教義の講義中に子供が居眠りしていた場合、親が叩(たた)く・むち打つ行為は「身体的虐待」、また医師が必要と判断した輸血の拒否は「ネグレクト(育児放棄)」になると例示している。信者が大切にする聖書に「少年を懲らしめるのを控えてはならない」「血を避ける」などの教えがある。
体罰や医療拒否を児童虐待と捉えることは現在の社会通念から考えると、妥当と思える。特に、輸血拒否は命に関わるから信仰の自由の臨界点で悩ましい。だが、15歳以上で判断能力を有し、自主的に輸血拒否するケースを機械的に「児童虐待」と断定したのなら子供の人格否定にならないのか。子供の「自己決定権」尊重の風潮に逆行するのではないかなど多角的な視点から論じる必要がある。
日本のメディアはほとんど報じないが、この指針については、日本の教育専門家だけでなく、国連人権高等弁務官事務所が警告を発していることに注目すべきだ。指針は「~をしなければ/すれば地獄に落ちる」の言葉を用いて教育することは「心理的虐待」に該当するなど、宗教教育そのものを否定し、ひいては宗教への偏見・差別を助長しかねない内容を含んでいる。
非宗教的家庭に比べ、宗教的家庭の方が児童虐待が多いわけでもないのに「宗教虐待」という新たな定義を定めてしまいかねない指針を容認することはできない。むしろ、子供への宗教教育が疎(おろそ)かになり、唯物的な考え方が社会に広がっていることの方が問題で、それが児童虐待を急増させていると捉えるべきであろう。
ただ宗教行為であっても他人の身体に危害を加えることは、信教の自由の逸脱であるということは最高裁判例で確定している。一方、指針は、子供に対する教育権を持つ保護者が信仰上の信念から、子供への信仰継承の一環として私的に宗教教育を行う場合、公的機関はどこまで介入できるのかという根源的な課題を惹起(じゃっき)させている。この議論を欠いて作られたことが指針の欠陥につながっているのだ。
2022年7月の安倍晋三元首相暗殺事件をきっかけに、信仰を持つ親に虐待されたと主張する、いわゆる「宗教2世」にマスコミが注目し、その〝熱狂〟の中、指針は急きょ作られた。指針が独立した専門家や一般からの意見を求めずに作成され、透明性に欠けるとの教団の主張は政府の落ち度を言い当てている。
多角的な観点から議論を
指針の作成には教団関係者の意見も聞いた上で、親と子供の信教の自由、子育ての不調の改善、逸脱行為からの子供保護など多角的な観点からの議論が欠かせない。その上で、指針が必要かを考えるべきである。





