トップオピニオン社説三笠宮妃殿下薨去 激動の時代に変わらぬ御献身 【社説】

三笠宮妃殿下薨去 激動の時代に変わらぬ御献身 【社説】

三笠宮崇仁親王妃百合子殿下が老衰のため薨去(こうきょ)された。皇族としては最高齢の101歳。親王殿下を支えながら、昭和の激動の時代を生き抜き、皇族としての務めに献身してこられた御生涯だった。謹んで哀悼の意を捧(ささ)げたい。

国民への祈りの御生涯

百合子さまは大正12年、高木正得子爵の次女として生まれ、昭和16年、昭和天皇の末弟三笠宮さまと御結婚。3男2女をもうけられた。三男の高円宮憲仁親王殿下、長男の寛仁親王殿下、次男の桂宮宜仁親王殿下に相次いで先立たれ、平成28年、三笠宮さまが100歳で薨去されてからは三笠宮家の当主となられた。御結婚の2カ月後に米英との戦争が始まった。三笠宮さまが軍務に就かれる中、留守を守られたが、終戦間近には空襲で宮邸が焼失し、一時期防空壕(ごう)で生活された。

戦後大きく時代が変わり、歴史学の道に進み古代オリエント学者となられた三笠宮さまの資料整理やノートの書き写しなど献身的に支えられた。恩賜財団母子愛育会の総裁、着物文化の普及・伝承に取り組む民族衣裳文化普及協会の名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁などを務め、各種団体の地方でのさまざまな行事に出席し、人々を励ましてこられた。

御夫妻で欧米や南米などを訪問し、トルコには3回訪れるなど国際親善に尽くされた。令和5年6月、100歳の誕生日を迎えた際、「これからも人々の幸せを祈念しつつ、日々を過ごしてまいりたい」と所感を文書で寄せられた。その御生涯は、夫への献身と共に国家・国民への祈りに貫かれていた。

百合子さまは旧大名家に生まれ18歳で皇室に入られた。旧華族制度で皇室入りした最後の世代であった。そういう意味で百合子さまの薨去は、一つの時代の終わりを象徴するものとも言える。しかし、皇室の伝統を守り、天皇、皇后両陛下を支え、国民の幸を祈られる百合子さまの揺るぎない姿勢は継承されなければならない。

三笠宮さまは御結婚70年の所感で次のようにつづられた。「妻は華族の出身であるが、皇族の生活は一段と厳しく、忙しいから、留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない」

「百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」と三笠宮さまが深い謝意をつづられ、一方、百合子さまは「余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません」との言葉をつづられた。激動の昭和を共に歩まれ、築かれた御夫妻の深い絆を示すものである。

御夫妻の美しい晩年

世界有数の長寿国となる一方で、孤独な晩年を過ごす高齢者も増えている。かつて経験したことのない超高齢社会の晩年の在り方は模索の中にある。御夫妻の晩年のお姿を大切な記憶として残しておきたい。

御夫妻は共に100歳を超える天寿を全うされた。日本人があらゆる分野で理想のモデルを失う中、御夫妻は美しく睦(むつ)まじい晩年を過ごされた。

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »