田中角栄首相は1972年9月、大平正芳外相らを伴い訪中した。当時日本は、ニクソン米大統領の電撃的訪中と米中和解の動きに慌て、国際潮流に取り残されまいとの焦燥感に囚(とら)われていた。佐藤栄作前首相の後継本命と目されていた福田赳夫氏を抑え、首相に就任したばかりの田中氏は、党内基盤を確立させるため自ら訪中し、一気呵成(かせい)に中国との関係正常化に動いたのである。29日に日中共同声明に調印し、日本は米国に先行して一気に中国と国交を回復し、同時に台湾と断交した。
日本の資金で軍備を増強
日本国内では空前の日中友好ムードが巻き起こったが、関係改善を迫られていたのは中国も同様だった。高まるソ連の脅威に対抗するため日米の取り込みに必死だった中国は、それまで糾弾していた日米安保条約の容認へと態度を転じた。焦る中国の内情や思惑を考慮し、日本は台湾問題などで安易な譲歩をせず慎重に交渉を進めるべきではなかったか。拙速が悔やまれる。
78年締結の日中平和友好条約には、ソ連の覇権主義に反対する反覇権条項が盛り込まれ、日本は中国の反ソ戦線に組み込まれていく。ところがその後、中国は日米中連携による反ソ包囲網の戦略から独立自主路線へと外交方針を大転換させた。そして日米の力をバックにソ連との関係改善に漕(こ)ぎ着け、軍備負担の重圧を脱し改革開放の路線に専念するのだ。
民主化運動を弾圧した89年の天安門事件で中国が世界から孤立した際、日本は真っ先に関係改善に動き、西側諸国の対中包囲網を瓦解(がかい)させた。苦境に陥った中国の共産党独裁政権を手助けしたのは日本である。そればかりか戦前の贖罪(しょくざい)意識も働き、日本は中国に莫大(ばくだい)な資金や技術を提供し続けた。それが中国の近代化にとどまらず、軍備の増強にも充てられた。
かように国交回復後も、日本の対中外交は中国の思惑に利用され続けた。共産中国の甘言に弄(ろう)され、あるいは目先の経済利益やその時々のムードに押し流された日本の対中政策が、今日の中国の脅威を生んだと言っても過言ではない。
対中友好一色に覆われた50年前とは異なり、尖閣・台湾問題をはじめ中国の覇権主義外交により、対面での日中首脳会談は3年近く途絶えたままだ。祝賀ムードは見られず、日中関係は冷え込んだ状態が続いている。しかし、冷静に今後の関係を考える上で好都合でもある。中国フィーバーやそれに煽(あお)られ情に流された対中外交が、日本の国益や国際社会に及ぼした影響について再考する機会としたい。
毅然とした姿勢で臨め
隣国中国との関係が日本にとって重要なことは言を俟(ま)たない。安定発展的な関係を築く努力も必要だ。しかし、中国の戦略に取り込まれてはならず、そのためには国際政治に対する長期的な視野と戦略的な外交感覚が日本に求められる。
日本が中国の市場に魅力を感じるのと同様、中国も日本の経済や環境技術などを欲している。怯(おび)え媚(こ)びることなく、また防衛力の整備を怠らず、毅然(きぜん)とした姿勢で対中外交を進めていくべきだ。