米国がキリスト教国だということは、大統領就任式における、聖書に手を置いた宣誓式や、ワシントン大聖堂で行われる礼拝「国民のための祈り」が象徴する。2度目のホワイトハウス入りを果たしたドナルド・トランプ氏も礼拝に列席した(1月21日)。
ところが、今年はこの伝統的な礼拝が大統領と説教者の対立を表面化させる場となった。不法移民やLGBT(性的少数者)に厳しい対応を取るトランプ氏に、米国聖公会の説教者が「慈愛」を求めたからだ。この問題について、立教大学総長で日本聖公会の主教を務める西原廉太氏のインタビュー記事が月刊「Voice」7月号に載っている(「米国大統領と聖公会」。キリスト教保守派、特にファンダメンタリズム(根本主義)とリベラルの対立の淵源(えんげん)を示す論考で興味深い。
説教者はワシントン教区のマリアン・バディ主教(女性)。「民主党、共和党、無所属の家庭には、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの子どもたちがおり、中には命の危険すら感じている子どもたちもいます」と、LGBT当事者に慈愛を注ぐよう促した。また、「移民の大多数は犯罪者ではありません」と、「よそ者」にも思いやりを求めた。これについて、西原氏は「内容も政治的なメッセージではなく、私たちから見ればごく普通の説教」と解説する。
西原氏のリベラルな姿勢を浮き彫りにしたのは旧約聖書にある「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない」(レビ記)の記述についての解釈だ。この聖句も当時の社会的・文化的背景を踏まえてその意味を解釈すべきだとしたのだ。
男性同性愛を禁じると解釈できる聖句だが、西原氏は聖書の一字一句が絶対であるなら、「すべて水の中にいて、ひれも、うろこもないものは、あなたがたに忌むべきものである」(レビ記)からは、イカ・エビなどは食べてはならぬということになるではないか、と聖句は柔軟に解釈すべきだと説いた。
確かに、キリスト教のファンダメンタリズムには首をかしげたくなることも少なくないが、西原氏のリベラルな解釈には無理がある。性的行動と食材を同列に扱う論法では、説得力を失う。慈愛にも原則が必要であろう。
男女の性別を曖昧にしたり、米国人はみんな移民だったではないか、と不法移民まで容認したのでは、社会秩序を崩壊させてしまう。原則を維持した上での慈愛ならいいが、それが原則軽視に向かわせるリベラルには警戒を要する。