“狂乱”に加担せずと佐藤優氏
安倍晋三元首相銃撃事件(2022年7月8日)から、もうすぐ3年。事件に端を発した宗教法人「世界平和統一家庭連合」(家庭連合、旧統一教会)の解散命令請求問題は今年3月、東京地方裁判所が命令を下した。教団側はこれを不当とし、東京高裁に即時抗告した。
銃撃事件以降、マスメディアで家庭連合批判が渦巻く中、保守論壇の一部には、信教の自由に対する公権力の不当な介入や弁護士・ジャーナリストら左翼勢力による保守的教団潰(つぶ)しとする論考が掲載された。
一方、政教分離について間違った解釈がまかり通る思潮に最も敏感に反応していいはずの公明党や創価学会の動きが鈍かったように感じる。教団バッシングの“狂乱”が自分たちに向かってくることへの警戒心があったのかもしれない。
マスメディアの狂乱が収まったことと関係があるのだろうか。創価学会や公明党と関係の深い月刊誌「潮」7月号が家庭連合の解散命令問題に触れた論考を2本掲載している。作家・佐藤優氏の「混迷の時代に際立つ月刊『潮』の現代的使命。」(談)と、恵泉女学園大学人間社会学部教授・齋藤小百合氏の「信教の自由と政教分離原則は共生社会の基盤。」だ。
佐藤氏は創刊65周年を迎えた「潮」の論壇における役割・課題を述べた中で、解散命令問題に触れている。そこで強調されているのは第一に政教分離の原則。これは国家や公権力が宗教団体の活動や個人の信仰に介入することを禁じるもので「宗教団体や個人が政治活動をするのは自由であって、創価学会が公明党を支援(しえん)することが憲法違反(いはん)であるはずが」ないと断言する。
これを前提に、安倍氏銃撃事件以降、家庭連合に対する「非常に乱暴な攻撃(こうげき)と、人間の内心の自由に対する攻撃が展開されてきました」と、義憤を感じさせる表現を行っている。そして、ここからが重要なので少し長くなるが紹介する。「創価学会から見れば、霊感(れいかん)商法を展開していた旧統一教会はまったく異質な宗教であり、共感するところはまるでないでしょう。だからといってメンバーが内面世界で大切にしているところに踏(ふ)みこんで『旧統一教会は淫祠邪教(いんしじゃきょう)だ』とレッテル貼(ば)りする行為(こうい)は、人間の内心の自由を踏みにじります」
キリスト教徒として知られる佐藤氏が「内心の自由」は宗教が違っても不可侵のものであるとの強い信念を持つことを示す部分だ。これが「『文部科学省は旧統一教会に解散命令を下せ』と叫(さけ)ぶことにも、私はまったく共感」できないという、この問題に対する自身のスタンス表明につながっている。
内心の自由を踏みにじってはならぬと言っても、具体的な事案に対しては対処すべきだ。関与した社会的道義的責任・刑事的責任は取らせるべきだが、「問題を起こした個人のみならず、宗教を信じる人全体、さらには教義体系そのものを揶揄(やゆ)すること」があってはならない、と訴える。
これには筆者も同感だ。家庭連合に逸脱行為が見られるなら道義的・法的対応を取って改善させる必要がある。民事訴訟や公的機関への相談件数の激減が示すように、逸脱行為は大幅に減っているのに解散させる必要はあるのか。
一方、齋藤氏の論考は、論旨が揺れており論評に戸惑う。信教の自由と政教分離の原則は少数派の信仰を持つ人々を「国家と宗教が結びついた抑圧」から解放することが出発になっているとしながら、霊感商法や高額献金の被害などの実態から東京地裁による解散命令は「信教の自由の侵害(しんがい)とは言えませんし、むしろ遅すぎたと言えるのかもしれません」と述べる。
ところが、教団側に「ここまでかなり厳しい意見を述べてきました」と断った上で、「敢(あ)えて言いたいのは、〈著しく公共の福祉を害する〉という理由による信教の自由への公権力の介入には、慎重なうえにも慎重を期すべきだということです」と強調した。
また、東京地裁の解散命令がオウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件(1995年3月)からちょうど30年の節目と重なったことについても「裁判所がわざわざこのタイミングに合わせて」出したことは「なんとも名状しがたい気味の悪さを」覚えたと吐露。さらには、霊感商法や高額献金による被害者は大変な思いをしたが、「しかし、その統一教会の問題と、無差別テロ事件を引き起こしたオウム真理教の問題を並び揃(そろ)えようとしても、的外れ」と訴え、前段で行った教団への「厳しい意見」を弱めてしまう言動が見られる。
作家で自由な言論活動を行える佐藤氏と違い、齋藤氏は大学に身を置く。齋藤氏が本当に言いたかったことは後半部分だったと思うが、教団に厳しいことを言っておかないと、自らの立場が危うくなるというアカデミズム界の現実を思わせる論考だった。