
読書が「耐性思考力」鍛える
論壇誌2月号はほとんどが新聞・テレビなどの「オールドメディア」(マスコミ)と、X(旧ツイッター)・ユーチューブ・TikTokなどの「ニューメディア」の対立を取り上げた論考を載せている。
背景には昨年、SNSによる情報発信が注目を集める選挙が続いたことがある。前安芸高田市長の石丸伸二が東京都知事選で次点に入る得票を獲得した「石丸現象」、議会から不信任された斎藤元彦が大方の予想に反して再選を果たした兵庫県知事選挙、さらには衆議院選挙における国民民主党の躍進などだ。
月刊誌を見ると、嘘は流さないが媒体の論調に合わない事実を隠して偏向報道を続けるマスコミに対する不信と、フェイクだけでなく誹謗(ひぼう)中傷もあるがマスコミが流さない情報を入手できるSNSの危険性に、論考のポイントは大きく二つに分かれている。
どちらかといえば、保守論壇は前者に傾く。例えば、ブロガーの藤原かずえの論考「兵庫県知事選 オールドメディアの暴走」(「Hanada」)がある。保守派の月刊誌は、朝日新聞をはじめとした既存メディアの左傾化批判に力を入れてきたから当然ともいえる。
一方、後者の視点からの論考は、保守・リベラル・左派のいずれに属する言論人も書いている。例えば、批評家の藤田直哉は昨年の選挙における予想外の出来事の背景には「オールドメディアからニューメディアへと影響力の覇権が移行したことがあるだろう」と分析。その上で「このような覇権の移行期において、様々な問題が起きていると考えることができる。その大きな一つが、デマ・陰謀論である」と述べている(「ネット・ポピュリズムが一線を越えた2024年」=「中央公論」)。
月刊誌最新号が店頭に並んだのは、兵庫県議会百条委員会の委員だった元県議が亡くなるという事態の前だった。もし誹謗中傷に耐えられずに自ら命を絶ったとされる事態が起きた後だったら、論壇でもSNSの危険性を指摘する論考が増えていただろう。また、正当な批判と誹謗中傷の違いが分かりづらくなっている現状について深掘りした論考も掲載されたかもしれない。ちなみに元県議は百条委員会で後に「デマ」とされて問題となった発言を行っており、正当な批判もあったであろう。
それはともかく、ここではSNSの情報発信で、なぜ自分の意見と違う政治家への攻撃的な内容が多いのか、情報に流されないためにメディアとどう向き合うべきかという二つの観点で論を進めたい。
政治家による言動も含めて、敵対する側への攻撃性を強めるのは、例えば斉藤支持派と反斉藤派、石丸支持派と反石丸派の双方に見られる傾向だ。この点について考える上で、参考になるのは評論家・與那覇潤の論考「斎藤知事再選と『推し選挙』」(「正論」)だ。
見出しが示すように、與那覇は「石丸現象」「斎藤現象」を、自分の好きなアイドルや俳優などを応援する「推し活」に倣って「推し選挙」と呼ぶ。つまり、これまでのように党を応援するのではなく、政治家個人を支持者がSNSを使って応援する型の選挙のことだ。「こうした『推し』型の支持者の問題は、リアルに対面しての意見の調整を一度も経験しないため、『敵』だと見なす相手に攻撃的になることだ」と、その危険性を指摘する。
民主主義の社会において、人種・宗教・世代などによってさまざまな考えを持つ人間が共存するためには、異なる考え方に対する理解力と他者への共感力が重要となる。しかし、それらの力を鍛える生身の交流経験と対話が乏しい人間が特定の政治家を支持して「姿なき集団」を形成する時、その攻撃は熾烈(しれつ)で、それにさらされた政治家は、強固なメンタルの持ち主でなければ耐えられない。
兵庫県議会の元県議が亡くなったことを受けて、マスコミはSNSで流れるデマや誹謗中傷に警鐘を鳴らす。これは当然だ。しかし明確な証拠が出ていないのに「おねだり・パワハラ知事」と報道し斎藤への誹謗中傷を煽(あお)ったのはマスコミではなかったか。昨年までの報道を見ると、新聞・テレビが人権のダブルスタンダード(二重基準)に陥っていたのは否定できず、そのことに十分な反省が見られないことも既存メディアに対する不信感が高まる要因になっている。
一方で、自分が推す政治家が選挙で勝つことは、自己の承認欲求を満たす。これもタレントへの推し活と共通するが、しかしそこには見えない罠(わな)が潜む。それについて、與那覇は「貶(けな)し活」に転じることだという。つまり推し活はライバルをこき下ろすことと表裏一体となっているのである。
兵庫県政の混乱の中で、斎藤支持派と反斎藤派が互いにSNSで攻撃的な言動を繰り広げる現状を見ると、この分析には納得させられるものがある。さらに、例えばXで、敵対する側を批判する自分のポストに「いいね」が付くと、承認欲求が満たされ、さらに攻撃的なポストに熱を入れるようになるだろう。こうした貶し活は、生身の人間交流が不足し自制力が育っていない人間の精神に、あたかも「脳内麻薬」のように作用するのではないか、ということだ。
斎藤の再選について「たんにSNSや広報・宣伝の力で片付けることは、既成政党や大手メディアによる責任転嫁(てんか)だ」。
こう指摘するのは上智大学文学部教授の佐藤卓己(「SNSの時代には“あいまいさに耐える”思考力が必要だ。」=「潮」)。そして「SNSに騙(だま)された」と単純化する言説は「民主主義の否定とさえ言えるだろう」と述べている。正論である。
與那覇と佐藤の論考に共通するのは、SNSの力だけで斎藤が再選を果たしたのではないという点だ。推される側には、推されるだけの条件が整っているというのだ。既得権益を守ろうとする側への反発と、県立大学の授業料無償化や行政改革など斎藤の1期目の実績、それに加えて、既存メディアに「一泡吹かせたいとする、純粋な『否定の快楽』」(與那覇覇)が重なったのだ。
では、ネットが普及し、フェイクを含む膨大な量の情報に翻弄(ほんろう)されないようにするためには、われわれは情報とどう向き合ったらいいのか。佐藤はあいまいな情報、不確実性に耐える力を意味する「ネガティブ・リテラシー」を提唱する。「何ごとも白黒、善悪、利害、優劣(ゆうれつ)の判断を急がず、あいまいな状況に向き合う。そんな耐性(たいせい)思考力のことだ」と説明する。
そして、耐性思考力を身に付ける最善策として、佐藤は読書を薦める。本を多く読めばじっくりモノを考えることが習慣付けられ、それが喜びになっていくからだ。本に加えて、論壇誌や新聞の活字に親しむことも、フェイクや陰謀論に惑わされない論理思考を養う上で有効だが、それには質の高い論考や記事が提供されていることが前提となる。そうでなければ、若者層を中心とした既存メディアへの不信は高まるだけだ。
一方、ネット情報の質が高まる必要があろう。ジャーナリストの池上彰が「世界」のインタビュー記事「既存メディアは底力を見せるときだ」で指摘したように、テレビ・新聞、そしてそこでジャーナリストとしての基礎的訓練・経験を積んだ言論人がネットで積極的に情報発信することは、既存メディアに接する機会の少ない層が質の高い情報とはどんなものかを知り、フェイクや陰謀論に惑わされずに済むようになることに貢献できるだろう。
(森田 清策)