生田神社名誉宮司 加藤 隆久氏

縄文時代から日本人は恵まれた自然環境の中で、自然と親和的な精神文化を育んできた。その上に仏教を受容したので、江戸時代まではいわゆる神仏習合が日本人の一般的な信仰であった。明治元(1868)年、神社から仏教色を排除する神仏分離令が出され、廃仏毀釈(きしゃく)の嵐が吹き荒れたが、今も多くの家庭には神棚と仏壇が置かれている。
神と仏との出会いの場が聖地で、人々は山岳や辺地で修行し、神社や寺院に参詣してきた。そのような聖地が特に紀伊、大和、摂津、播磨、山城、近江などに集中し、伊勢神宮や熊野、高野への参詣、西国三十三観音霊場巡礼、各宗派の宗祖聖跡巡礼などが時代を超えて行われている。こうした由緒深い神仏が同座し、和合する古社や古刹(こさつ)を中心とする聖地を整えようと平成20(2008)年に設立されたのが「神仏霊場会」である。
同年9月8日には、神仏霊場会発足の奉告祭と神宮正式参拝が伊勢で行われた。皇學館大學での奉告祭は私が斎主を、東大寺長老の森本公誠(こうせい)師が導師を務め、祝詞奏上、表白に続いて「般若心経」を唱え、生田神社雅楽会が神楽「豊栄舞」を奉奏した。森本長老は「神仏界に身を置く者の責めを探り、宗教の新たな叡智(えいち)を学び、人々に潤いとぬくもりを呼び戻そう」と表白を読み上げ、各寺院の門主や管長らが般若心経を唱えた。その後、私に森本長老、神社本庁副総長の田中恆清(つねきよ)石清水(いわしみず)八幡宮宮司、半田孝淳天台座主(ざす)(肩書はいずれも当時)が伊勢神宮に参拝した。とりわけ天台座主の伊勢参りは初めてで注目された。
日本人は太古から人も木も草も国土も「神が生みたもうたもの」と信じていた。そこへ、約1400年前に、それらすべてが仏の慈悲の現れであると教える仏教が伝わり、古来の神道と融合しつつ、自然と共に生かされている日本人を育ててきた。
『神仏融合史の研究』(名古屋大学出版会)でアジア各地の神仏〈融合〉を明らかにした吉田一彦名古屋市立大学特任教授は、神仏を複合的、融合的に信仰する宗教現象は日本だけでなく、広くアジア仏教国全般に見られ、仏教の特性だとする。日本の本地(ほんじ)垂迹(すいじゃく)説は、8世紀に中国仏教の「垂迹」思想が受容され、それが11世紀後期に密教の「本地」思想に接合されて成立し、神社の発展にとって有用な思想だったので、最初は伊勢で、次いで熊野で説かれ、12世紀には主な神社に「本地」が設定されたという。
平成23(2011)年6月9日、東大寺で「神仏合同東日本大震災慰霊追悼復興祈願会」を挙行した。これは、阪神・淡路大震災で社殿が倒壊した生田神社の再建に、神戸復興の証しとして邁進(まいしん)した経験から、神仏霊場会2代目会長として私が呼び掛けたものである。
祈願場の東大寺大仏殿は、奈良時代に天災と飢餓の国難に立ち向かうため、聖武天皇が「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願われ、それに応えた多くの民の協力により完成したもので、しかも、廬舎那仏(るしゃなぶつ)(大仏)は宇佐神宮の八幡神の助力を得て造られた、神仏一致の象徴と言える仏像であるから、国難において神道界と仏教界が合同して祈りを捧(ささ)げるのにふさわしい場として選ばれた。
祈願会では僧侶と神職が2列になって大仏殿に入場し、東大寺長老と式衆による唄(声明(しょうみょう))と散華(さんげ)に続いて、導師の北河原公敬(こうけい)・同寺別当(神仏霊場会副会長)が「盧舎那大仏に神仏合同の祈りを捧げることで、被災地の神仏の霊威が回復し、物故者の御霊が安らかとなり、被災地の早期復興がなりますように」と表白を読み上げた。
斎主の私が祈願詞を、神職たちが大祓詞(おおはらえのことば)を奏上し、東大寺の僧侶が「般若心経」を読経する中、僧侶代表と神仏霊場の満願者代表が焼香し、犠牲者の冥福と被災地の復興を祈願したのである。
(談)





