トップオピニオンインタビュー【持論時論】江戸の陽明学から明治のキリスト教へ 続編 吉備・岡山の宗教風土 (上) 近世・近代  岡山歴史研究会事務局長・郷土史家 山田良三氏に聞く

【持論時論】江戸の陽明学から明治のキリスト教へ 続編 吉備・岡山の宗教風土 (上) 近世・近代  岡山歴史研究会事務局長・郷土史家 山田良三氏に聞く

やまだ・りょうぞう 昭和23年、金毘羅(こんぴら)宮との両参りで有名な由加神社本宮と瑜伽山蓮台寺に近い現倉敷市児島白尾生まれ。鳥取大学時代に出会った宗教や儒学、倫理・道徳関係者との交流から宗教と歴史に関心を持つ。その後、栃木や東北で宗教関係者らと交流、研鑽(けんさん)し、平成3年岡山に帰郷、法然や栄西などの宗教家や偉人を輩出した岡山の風土や歴史を中心に研究。現在、岡山歴史研究会事務局長。岡山人物銘々伝を語る会など歴史や人物研究の団体で活躍中。
やまだ・りょうぞう 昭和23年、金毘羅(こんぴら)宮との両参りで有名な由加神社本宮と瑜伽山蓮台寺に近い現倉敷市児島白尾生まれ。鳥取大学時代に出会った宗教や儒学、倫理・道徳関係者との交流から宗教と歴史に関心を持つ。その後、栃木や東北で宗教関係者らと交流、研鑽(けんさん)し、平成3年岡山に帰郷、法然や栄西などの宗教家や偉人を輩出した岡山の風土や歴史を中心に研究。現在、岡山歴史研究会事務局長。岡山人物銘々伝を語る会など歴史や人物研究の団体で活躍中。
幕末期の藩政改革に貢献したのが備中松山藩の陽明学者・山田方谷(ほうこく)。同藩が新島襄の渡米を支援した縁で、明治になると岡山にいち早くキリスト教が伝わり、山田方谷に漢学を学んだ福西志計子(しげこ)は受洗し、岡山初の女学校・順正高等女学校を設立する。近世・近代の岡山の宗教史を郷土史家の山田良三氏に聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

――幕末、山田方谷の学問と実践は話題になり、長岡の河井継之助(つぎのすけ)や会津の秋月悌次郎(ていじろう)、長州の久坂玄瑞(くさかげんすい)らが学びに来ます。

方谷は江戸の佐藤一斎の塾で佐久間象山らと陽明学を学んで塾頭になり、34歳で備中松山藩の有終館学頭になって人材育成に努めました。

藩主板倉勝静(かつきよ)に財務を任された方谷は、45歳から藩政改革に取り組み、反対を押し切って藩の実収入を大坂商人に公開して借金返済を延期し、次いで「備中」ブランドの鍬(くわ)やタバコ、茶、ゆべし、そうめん、和紙などの製造販売に成功します。

一方、領民教育にも力を注ぎ、優秀者は出身にかかわらず藩士に登用しました。武士には文武両道を奨励し、編成した「農兵隊」は高杉晋作の「奇兵隊」のモデルになります。

晩年、方谷は日本初の庶民学校「閑谷(しずたに)学校」を再開し、弟子に二松学舎大学を創立した三島中洲(ちゅうしゅう)がいます。

――江戸時代一の学者とされるのは岡山藩主池田光政に仕えた陽明学者の熊沢蕃山(ばんざん)です。

 蕃山は零細農民の救済や治山・治水による農業振興に成果を挙げました。

――一向一揆で苦労した徳川家康は寺社奉行を定めます。

幕府から弾圧されたのがキリシタンと日蓮宗の不受不施派で、後者は、法華経を信仰しない者から布施の授受をしない宗派の総称で、拠点が岡山でした。「備前法華安芸門徒」で備前(岡山)は日蓮宗が、安芸(広島)は浄土真宗が盛んです。

――明治の岡山にはキリスト教が入り、新島襄や内村鑑三も訪れました。

新島襄がキリスト教を学ぶため国禁を犯して渡米できたのは、彼の安中藩の本家筋である備中松山藩の応援があったからです。開明派藩主の板倉勝明に見いだされた新島は、保守的な安中藩からの脱出を企てます。そのころ備中松山藩江戸藩邸の儒学師範で安中藩の儒学師範を兼務していたのが川田甕江(おうこう)で、教え子に幕府の軍艦操練所で操船術や洋学を学ぶ新島がいたのです。

藩が購入した洋式帆船快風丸の江戸から松山藩の藩港玉島への航海に川田は新島を招きます。その航海で新島は蘭学に興味を持ち、聖書に触れて西洋文明とキリスト教に引かれ、渡米の志を抱くようになります。

快風丸が蝦夷に行く話を聞いた新島は、開港したばかりの函館からの渡米を考え、その話を聞いた川田甕江の依頼で板倉勝静が安中藩に、新島を快風丸に乗船させるよう要請したのです。快風丸で函館に渡った新島は、米国船で上海に行き、上海から渡米しました。新島はプロテスタント組合派の信者だった船主夫妻や組合派基督教会などの支援で洗礼し、アーモスト大学やアンドーヴァー神学校で学びます。維新後、新島は新政府の駐米公使になった森有礼(ありのり)に正式な留学生と認められ、さらに通訳として岩倉遣欧使節団に加わり、ヨーロッパ諸国を見分します。

明治8年に帰国した新島は、京都府顧問の山本覚馬(かくま)らの応援で同志社英学校を設立しました。その第1期生の金森通倫(みちとも)が、新島の恩返しの思いを汲(く)んで岡山に赴任し、高梁(たかはし)教会を設立します。

――新島の講演を聞いて感銘し、後に岡山初の女学校・順正高等女学校を設立したのが福西志計子です。

山田方谷に漢学を学び、高梁小学校附属裁縫所の教師になっていた志計子は、高梁基督教会堂でキリスト教に触れ、金森通倫や新島襄との交流で女子教育の必要性を痛感したのです。

岡山で日本で最初のセツルメント(隣保事業)を興し、その生涯を社会福祉事業に投入したのが、アメリカン・ボード宣教師のアリス・ペティ・アダムスです。岡山県は福祉向上のため明治12年にアメリカン・ボードの宣教本部を招き、アダムスは明治24年に開通したばかりの山陽鉄道で神戸から来ました。

アダムスは宣教師会が開いた薇陽(びよう)学院で英語を教え、生徒に正宗白鳥や宇垣一成(かずしげ)がいます。アダムスは私立花畑尋常小学校を開校し、石井十次の岡山孤児院の尋常高等小学校とともに県下の代表的な私立学校になり、アダムスが小学校に併設した施療所が後の岡山博愛会病院です。

――救世軍の山室軍平は。

山室軍平は明治5年、今の岡山県新見市に生まれ、14歳で上京し、築地の活版製造所で働きながら独学する中、福音派教会の路傍伝道に出会い、明治21年に受洗します。

同志社で5年間学びますが、リベラルな神学になじめず、退学して高梁教会の伝道師になります。当時の高梁教会には、後に「家庭学校」を始めた留岡幸助や福西志計子がいました。その後、山室は石井十次の依頼で救世軍日本本営を訪ね、会館住み込みの下足番から始め救世軍一筋の道を歩みます。

山室の代表的な事業は明治33年に始めた娼妓自由廃業運動で、次いで結核対策の救世軍療養所を開き、歳末の慰問籠や慈善鍋、隣保事業や救世軍病院、児童虐待防止運動などの社会福祉活動を展開します。明治37年、ロンドンで第3回救世軍万国大会に参加した山室はブース大将の信任を受け、来日の折に日本救世軍書記長官を拝命、大正15年には東洋人初の救世軍将官に、次いで日本人初の司令官になります。山室は石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれています。

【メモ】 お寺のお盆会法要に出て、後ろの男の子が大きな声でお経を読む声に、祖母に連れられて寺に通った子供時代を思い出した。法話は「後生の一大事」をやさしく語りながら、自力から他力への思考の転換を促す、思想的にかなり高度な内容で、理解できた人はほとんどいなかっただろう。宗教が面白いのは、古代から現代までの歴史や文化、祖父母から私までの人生や知識、思考が詰まっていること。その面白さをもっと伝えたい。

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