戦前多くの軍歌を手掛け、戦後は歌謡曲やマーチなど平和の楽曲を残した古関裕而(こせきゆうじ)(1909~1989年)の人生を軸に、軍歌を否定するメディアの風潮を取り上げ、昭和という歴史や人の生きざまの連続性を尊び、恣意(しい)的な切断や切り取りの愚を慎むべきだと西川佳秀(よしみつ)東洋大学名誉教授が訴える。
戦争の傷未(いま)だ癒えやらぬ昭和23年8月、甲子園球場で、戦後初となる夏の高校野球大会が開催された。戦争中、中断されていた「全国中等学校優勝野球大会」を「全国高等学校野球選手権大会」へと衣替えしての再開である。この時、大会歌として古関裕而作曲の『栄冠は君に輝く』が披露された。
古関は、NHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のテーマソング『とんがり帽子』や『夢淡き東京』など敗戦による混乱や世情不安に襲われた当時の日本社会を背景に、幾多の名曲を世に送り出した。
なかでも高校球児を称(たた)える『栄冠は君に輝く』は今に至るまで永く歌い継がれている名曲だ。戦後の平和日本を象徴する一曲でもある。今年夏の開会式でも、甲子園球場で高らかにこの曲が歌い上げられた。
その後、昭和39年の東京オリンピック開会式で古関の作った『オリンピック・マーチ』が国立競技場に流れ、彼の名声は一躍世界へと広がった。古関裕而は戦後復興を成し遂げた日本人の偉業、その汗と苦労を音楽で描いた不世出の作曲家と言っても過言ではあるまい。
だが、古関裕而は「戦後日本」を代表する作曲家というだけではない。彼は「昭和」を代表する作曲家である。
戦前戦中、古関には幾多の軍歌を作曲した事実があるからだ。しかもその多くがヒットを重ねた。『露営の歌』をはじめ、予科練をうたった『若鷲の歌』や出征兵士を送る際に唱和された『暁に祈る』はつとに有名だ。
ラバウル海軍航空隊
さらに太平洋戦争末期の昭和19年1月には、『ラバウル海軍航空隊』が発売され、これも大ヒットした。
『暁に祈る』とは一転、軍歌と思えぬ明るさと軽快な旋律。“日本のスーザ”と称えられたマーチ作りの名手古関裕而に相応(ふさわ)しい代表作である。
是非一度聞き比べていただきたい。『ラバウル海軍航空隊』は、戦後作られた『栄冠は君に輝く』と曲想が似ている。特に締めの部分のメロディは酷似する。軍歌『ラバウル海軍航空隊』の発売から僅か4年後、今度は平和の曲『栄冠は君に輝く』を世に問うたのだ。
一方で海軍航空部隊の勇戦を称え、もう一方では戦後、日本に平和が戻る中、夏の甲子園球場で熱血のプレーを繰り広げる高校球児に古関はエールを送った。
こうした曲作りの姿に、戦前戦中は軍部に阿(おもね)り戦争に協力しながら、戦後は平和の理解者を装っていると古関を批判する向きもある。だがその論に与(くみ)し、古関を誹(そし)る気はない。彼はただ、青年のひた向きな生き様に感動を覚え、自らの楽曲でそれを称えたかったのである。
古関の中では、ラバウルも甲子園も等しく若人奮闘の場として一つに繋(つな)がっていた。そこに戦前も戦後もない。音楽に生きる者として当然の情念ではあるまいか。
軍歌のタブー視は間違い 戦前戦後つなぐ古関の作品
いまもテレビやラジオの音楽番組で古関裕而の作品が度々紹介されるが、彼が作った軍歌だけが意図的にオミットされることが多い。相似た曲でありながら『栄冠は君に輝く』には青春賛歌の曲と高い評価が与えられ、『ラバウル海軍航空隊』はそれが軍歌というだけの理由で、メディアや歴史の表舞台から遠ざけられてきた。
数年前、NHKが古関をモデルにドラマを制作した際には、軍歌を手掛けた事実には触れたものの、やや腰が引けた演出で、軍歌に対する批判的な描き方も気に掛かった。日本音楽界の泰斗山田耕作も陸軍航空をテーマにした『燃ゆる大空』という名曲を残しているが、彼の代表作としてメディアで紹介されることは一切ない。
軍歌は日本史を語る際、タブー視されるべき楽曲ではない。たとえ戦意高揚のため作られたものであっても、それを好み歌った大衆がいた。その歌に鼓舞され戦場に散った日本兵がいた。軍歌は彼らの生き様と一体であり、日本文化の重要な一部をなすものだ。軍歌は、当時の世相や社会を知る貴重な材料でもある。軍歌を手掛けた経歴を持つことで古関の評価が下がるとは思えない。
戦争容認と非難されることを恐れ、あるいは暗い時代を思い返したくはないと軍歌を否定する姿勢。それは、戦前日本そのものの否定に通じる。そして古関の戦前戦中の活動を消し去り、殊更に小さく扱うことで、平和な戦後の作曲家としてしか彼を語ろうとしないのは、古関裕而の人生を否定するものである。古関裕而という一人の作曲家の人生を戦前、戦後と切り分けてしまえば、彼の生き様を正しく語り継ぐことなど出来ようはずもない。歴史や人の人生の恣意(しい)的な切り分けは厳に慎むべきである。
昭和の戦前も戦中も、そして戦後の世も、相互に連なり、重なりあう日本人の軌跡である。偏見や自虐史観、イデオロギーに毒されることなく、戦争も平和も、その全てを冷静に語り継ぐことが出来るようになって初めて、我々は昭和という時代と真摯(しんし)に向き合ったといえるのではないか。