トップオピニオンインタビュー【持論時論】「地元の発展」大事にするのが仕事 信念の政治家(下) 元栃木県議会議長 増渕賢一氏に聞く

【持論時論】「地元の発展」大事にするのが仕事 信念の政治家(下) 元栃木県議会議長 増渕賢一氏に聞く

ますぶち・としかず 1946年、栃木県宇都宮市生まれ。玉川学園高等部卒業後、父経営の増渕組に入社。75年、栃木県議会議員に初当選。2011年まで9期。栃木県議会議長、自民党栃木県連幹事長を務める。青少年健全育成法の制定を求める栃木県民の会代表。
ますぶち・としかず 1946年、栃木県宇都宮市生まれ。玉川学園高等部卒業後、父経営の増渕組に入社。75年、栃木県議会議員に初当選。2011年まで9期。栃木県議会議長、自民党栃木県連幹事長を務める。青少年健全育成法の制定を求める栃木県民の会代表。

LRT誘致、中心部再開発 政令指定都市目指せ

――増渕先生が政治家を志した理由をお聞かせください。

大した理由じゃないんだけど、家庭内の事情で政治家になりました。僕を育ててくれた親父(おやじ)は、建設会社を1代で築いて、栃木県下一でした。僕は跡継ぎとして育てられたから、別に勉強できなくてもいいやと思って育ちました。喧嘩(けんか)と酒が強く、強ければいいやと思っていました。僕は本当は、親父の弟の子供なんです。親父に子供がいなかったので、養子に入ったんだけど、親父の2号さんの所に子供ができてしまった。豊臣秀吉と一緒です。それで「申し訳ないんだけど、実子に後継ぎさせたいから、お前、政治家になってくれねえか」と。

こういうわけで政治家になったわけです。僕も親父の後を継いで 親父ほどの業績を残せると思っていませんでした。建設業って難しいから。じゃ、親父と全く別の世界で その名を上げた方が僕もやりやすいんじゃないかというふうに思いました。たまたま僕も政治に関心があったので。政治の全くのずぶの素人だから、猛勉強しました。昭和49年の補欠選挙で落選しましたが、翌年の50年の統一地方選挙でトップで当選しました。

――これまで議員をされてきて、何を一番大事に活動してこられましたか。

やっぱり地方政治家だから、地元の発展です。特に宇都宮の場合は、JR東北本線を境に、西側が発展していて、僕は東側で遅れている所(が出身)だったので、西側に負けるなというふうな気持ちで全てをやってきました。だから僕が副議長になった年の選挙で、「もうそろそろ僕の力の見せどころだ」ということで、宇都宮(UTSUNOMIYA)のMと増渕(MASUBUCHI)のMを取って「Mプラン」という政策集を作りました。駅東の広場があったので、それのシンボルになるような街をつくろうということと、街の中心部の再開発と、あと、ちょうどテクノポリスセンターができたのでテクノポリスと宇都宮駅を結ぶ新都市交通システム、とこの3本を打ち立てて、選挙を戦って、その時も上位で当選しました。

いろいろ紆余(うよ)曲折ありましたが、宇都宮ライトレール(LRT)が完成し開業して、街の再開発も結構進んでいます。ただ残念なのは、今の政治家って展望がないんです。僕はその新都市を通してLRTが緒に就いたら、次の目標は政令都市だと思っていました。しかし、誰も今言う人がいません。せっかくね、戦後初めてと言われるその路面電車の新線をつくったわけだから、これを足掛かりにして、次の目標は政令都市というふうにしなきゃいけないんだけど。誰も言わねえんだから情けない。

宇都宮が仮に、「LRTができました。次の目標は政令都市です」と言えば、近隣から、例えば茨城県と埼玉県から10万人は寄ってくる。なぜそう言えるかっていうと、宇都宮で大宮近辺と同じ規模のマンションを買えば3分の1の価格で買えます。大宮近辺で3LDK買ったら1億円するものを、宇都宮で買ったら3000万円で買えます。差額7000万円。新幹線の定期券は大宮―宇都宮間が1カ月で約8万円だよ。1年で100万弱だ。差額の7000万の金利考えてごらんよ。十分お釣りが来ます。という計算で僕は、宇都宮が政令都市になりますよって言ったら、熊谷だとか取手だとか我孫子だとか、あの辺の人たちは宇都宮に来てもいいとなる。新幹線で楽々通えて、それで週末は、五、六千円でゴルフができる。そういう構想の下に、僕はさっき言ったMプランの3本柱を謳(うた)っていました。ところが、今の連中はそういう構想を全然立てない。

なぜそういうことを僕が思い付いたかというと、自民党の青年議員連盟という地方議員の集まりがあったんです。そこに若い頃から参加していて、たまたまある会合で、我孫子出身の千葉県の県議が、「我孫子も今や過疎地になっちゃったよ」って話していたんです。つくばエクスプレスができて、あそこは開発関連方式といって、駅ごとに住宅地を造成したでしょ。我孫子からそっちに移っちゃっているっていうんです。

なんでそんなに簡単に移るんだろうと思ったら、我孫子の宅地開発っていうのは、昭和40年から50年にかけての、いわゆるマッチ箱とかウサギ小屋とか言われている25坪の土地に家建てて住んでいるような所だったんです。それが平成になると豊かになったでしょ。そうすると、25坪じゃちょっと狭過ぎて、最低でも50坪なきゃと。一戸建ての家を造るとしたら、我孫子辺りの人は2軒のうち1軒は外に出なくちゃならないわけです。

その受け皿に栃木県の宇都宮がなってやれば、これはいけるんじゃないか。 今、俺の考えをそっくり板橋一好(かずよし)(自由民主党栃木県連副会長)さんが真似(まね)して小山市でやっています。首都圏の受け皿になって、小山が今、栃木県で一番発展しています。

――保守系政治家として、常に左翼と戦ってきたと思います。現役時代、共産党など左派勢力から嫌がらせを受けたことは。

共産党には街宣をかけられましたし、朝日新聞に記事で攻撃されたこともありました。

教育問題では、ある中学校で校内暴力があり、先生方では収拾がつかなくて、警察を呼ぶ事態になりました。警察を呼んだということで先生方はマスコミに吊(つ)るし上げにされてしまいました。その時に僕は、県議会本会議か委員会で、こういう緊急事態の時に警察を呼ぶのは仕方がないが、マスコミ対応を全く知らず、世間の荒波に晒(さら)されていない学校当局者にやらせてはダメだと言いました。マスコミ対応は教育委員会が一括してやるべきだと発言しました。

そうしたら、増渕は言論統制をすると言って共産党に県庁前で街宣をかけられました。僕はそのビラをもらってきて自分の後援会に配りました。僕はこういう風な考えです、と注釈付きでそのビラをコピーして配りました。ついでに朝日新聞の記事もコピーして…(笑)。

【メモ】 宇都宮には真新しい路面電車が走っている。あか抜けたデザインでヨーロッパのどこかの都市から抜け出してきたかのようだ。それが増渕さんの功績であることを知り、驚いた。地元「下野国(しもつけのくに)」への愛情。そして現政権への憤懣(ふんまん)やる方ない思い。一線は退かれたが、栃木には素晴らしい政治家がいる。

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