
客員論説委員 増子 耕一
「ロシアは今日、世界の話題(トピック)である。誰一人ロシアに無関心ではいられない。人類の未来とか、世界の運命とか、人間的幸福の建設とかいう大きな問題を、人はロシアを抜きに考えることはできない」。1953年2月に弘文堂から出版された井筒俊彦著『ロシア的人間』の「序」にある言葉だ。新版が2022年7月に刊行された。
同年2月、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から始まった戦争は、収束の気配を見せていない。この出来事と関連してロシアに関心が集まり、文学や思想に関する名作の復刊が相次いでいる。井筒のこの名著がそうであり、ロシアの作家ゲルツェン(1812~70)の『ロシアの革命思想』(岩波文庫)と、現在刊行中『過去と思索(一)』(同)もそうだ。
井筒の本で興味深かったのはトルストイに関する評価だ。その業績は『戦争と平和』をはじめ素晴らしい作品を生み出した前半生と、その「罪悪」を「後悔し」「懺悔(ざんげ)した」後半生とに分けられる。井筒は前半生を「自然的人間の大胆な肯定」と形容し、後半生の宗教的な作品の中に彼の「意識」がもたらした破壊荒廃の跡を見る。
「かの『基督教的』世界主義は、要するに現実の裏付けを全く欠いた空虚な掛け声だけにすぎなかった」と語り、トルストイが自分では世界主義者のつもりでいたが正反対の人間だったことを論証する。ドストエフスキーにはキリストという逃げ場があったがトルストイにはそれがなく、魂と精神の苦悩はドストエフスキーも及ばないほど深刻だったと結ぶ。
ところで冷戦末期の1990年4月、ソ連を旅したことがあった。現地の通信社の記者が通訳とガイドを務め、取材の手配もしてくれた。彼は当時の状況から「私たちは共産主義が何だったのか、トルストイやドストエフスキーまで遡(さかのぼ)って考えなければなりません」と語っていた。
なるほどと思ったが、今回、ゲルツェンの『ロシアの革命思想』を読んでみると、二人の作家の名をゲルツェンと言い換えた方がいいかもしれないと思った。
二人の作家がツァーリのロシアがどこからきたかを明示していないのに対し、ゲルツェンはそれを明示し、霧がかかったようなドストエフスキーの終末論の代わりに思想的言語で歴史の方向性を示していた。
『過去と思索』を訳者の長縄光男氏は「ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』はおろか、トルストイの『戦争と平和』をも遙かに凌ぐ、ロシア文学最大の雄編」と位置付けている。
『ロシアの革命思想』の副題は「その歴史的展開」で、ロシアの歴史をたどりつつツァーリ権力の成立と展開を論じていく。長縄氏の解説によれば、「西欧に向かって『ツァーリのロシア』とは異なる別のロシア―『民衆のロシア』や『革命のロシア』もあることを知らしめる」目的で書かれた。
民衆とは農村で育まれた「共同性」のことで、革命とは社会的正義の革命の意味で、西欧で育まれた「自由」「人間の尊厳」「個人性の尊重」という価値観によるもの。ツァーリ権力はルーシ(ロシアの古名)的ではなかったというのだ。ゲルツェンは歴史の先を見ていた。